八月八日(立秋)の朝と昼~甲子園往来~
五時に起床、
六時に出発、
(寝屋川に架かる橋上から六時過ぎの生駒と朝日)
七時に到着。
甲子園球場はすでに人の波・波・波。
外野席センターバックスクリーン一塁側寄り下方のところに、
なんとか座れました。
八時に第一試合開始、
期待の一年生打者初タイムリー、
十時に同終了。
甲子園名物(らしい)ジャンボ焼き鳥。
外野にトンボが一匹飛んでいました、
十時半に第二試合開始。
どちらも応援しながらの熱戦、
十三時までに同延長戦終了。
勝利の校歌途中ストップ後のアカペラを聞く。
(火災報知機作動によるハプニングとか・・・暑さかな?)
第三試合で初出場の大阪代表を見ることなく、
もう大満足(いっぱいいっぱいの汗)で帰路に着きました。
(同じく寝屋川に架かる橋上から十四時過ぎの生駒と雲)
六時に出発、
(寝屋川に架かる橋上から六時過ぎの生駒と朝日)
七時に到着。
甲子園球場はすでに人の波・波・波。
外野席センターバックスクリーン一塁側寄り下方のところに、
なんとか座れました。
八時に第一試合開始、
期待の一年生打者初タイムリー、
十時に同終了。
甲子園名物(らしい)ジャンボ焼き鳥。
外野にトンボが一匹飛んでいました、
でも猛暑日で日差しの酷い青空。
十時半に第二試合開始。
どちらも応援しながらの熱戦、
十三時までに同延長戦終了。
勝利の校歌途中ストップ後のアカペラを聞く。
(火災報知機作動によるハプニングとか・・・暑さかな?)
甲子園はさらに入れ替わりながら人の波・波・波。
第三試合で初出場の大阪代表を見ることなく、
もう大満足(いっぱいいっぱいの汗)で帰路に着きました。
(同じく寝屋川に架かる橋上から十四時過ぎの生駒と雲)
花火と火花
生駒山上遊園地の花火です。
20時過ぎから10分間を、
ベランダから見ていました。
(いつも当ブログでアップしている山頂付近方向)
近いようで遠いようで近い。
花火に音楽。
現地ではⅢ類吹奏楽部が演奏をしています。
花火ショー「ファイアーイリュージョン2015」とのこと。
ワーグナーが似合いそう、聴こえてきそうです。
・・・・・・・・・・・・
今日発売された「文藝春秋9月号」で、
ようやく「火花」を全文読み通せました。
受賞直後の選者コメントで、
選考委員の山田詠美さんが、
「キズはいくつかあるけれども・・・」とおっしゃっていたようなので、
そのキズを探しながらの意地悪い読み方でした。
が、結局見つかりませんでした。
(どこなの?表現力?構成?キャラ設定?時間軸?辻褄合わせ?)
ずっと以前から書店で何回かに分けて立ち読みした時には、
芸人の関西弁の応酬が、
むしろ「陳腐」(ちんぷ:古臭い)で「業界ネタ物」という印象でした。
しかし今日は、もっといいイメージで読めました。
文章全体に覆い被さっている「悲しみのスクリーントーン」とでも呼ぶべきムードが、
この作者の生来の特長なのだろうと支持できます。
山田さんが選評で「ここ、泣けてきたよ。」と述べている・・・、
“ 劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ ” の行(くだり)は、確かに心惹かれますね。
また、TV特番でも指摘されていた「渋谷の描写」・・・、
“ 渋谷駅前は幾つかの巨大スクリーンから流れる音が激突しては混合し、それに押し潰されないよう道を行く一人一人が引き連れている音もまた巨大なため、街全体が大声で叫んでいるように感じられた。” も共感できます。
ただ、「普遍的なるもの」は何処に、とも思います。
どうすれば「かなしみの共有」が可能なのか、
悲しみ・哀しみを文学的に深く味わうには、
さらに何が加わればいいのだろうと・・・、
そう考えながら他人事(ひとごと)のように頁を繰り直しています。
遠いようで近いようで遠い。
火花に文学。
ところで今日午後・・・、
ひとりの卒業生から、
「19歳の夏に読む、先生のおすすめの本」を問うメールがありました。
まず、在籍中の大学・学部を考慮して現代小説を二冊回答したのですが、
海外作品・近代作品・古典作品・・・と続けることができれば、
他の人たちにも伝えたいなあと考えています。
もちろん在校生にも学齢と時季に応じてね。
今しか見られないもの、たとえば花火。
今しか燃やせないもの、たとえば火花。
今しか読めないもの、たとえば・・・・・・。
夏の夜の夢のようです。
夏の甲子園の夢・・・、
明日は第一試合も人気カードだと気づきました。
第二試合をゆったりした場所で見るためにいつも同様の早起きをします。
おやすみなさい。
今日も見に来ていただいて、
ほんとうに有り難うございます。
またいつかお会いできますように。
20時過ぎから10分間を、
ベランダから見ていました。
(いつも当ブログでアップしている山頂付近方向)
近いようで遠いようで近い。
花火に音楽。
現地ではⅢ類吹奏楽部が演奏をしています。
花火ショー「ファイアーイリュージョン2015」とのこと。
ワーグナーが似合いそう、聴こえてきそうです。
・・・・・・・・・・・・
今日発売された「文藝春秋9月号」で、
ようやく「火花」を全文読み通せました。
受賞直後の選者コメントで、
選考委員の山田詠美さんが、
「キズはいくつかあるけれども・・・」とおっしゃっていたようなので、
そのキズを探しながらの意地悪い読み方でした。
が、結局見つかりませんでした。
(どこなの?表現力?構成?キャラ設定?時間軸?辻褄合わせ?)
ずっと以前から書店で何回かに分けて立ち読みした時には、
芸人の関西弁の応酬が、
むしろ「陳腐」(ちんぷ:古臭い)で「業界ネタ物」という印象でした。
しかし今日は、もっといいイメージで読めました。
文章全体に覆い被さっている「悲しみのスクリーントーン」とでも呼ぶべきムードが、
この作者の生来の特長なのだろうと支持できます。
山田さんが選評で「ここ、泣けてきたよ。」と述べている・・・、
“ 劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ ” の行(くだり)は、確かに心惹かれますね。
また、TV特番でも指摘されていた「渋谷の描写」・・・、
“ 渋谷駅前は幾つかの巨大スクリーンから流れる音が激突しては混合し、それに押し潰されないよう道を行く一人一人が引き連れている音もまた巨大なため、街全体が大声で叫んでいるように感じられた。” も共感できます。
ただ、「普遍的なるもの」は何処に、とも思います。
どうすれば「かなしみの共有」が可能なのか、
悲しみ・哀しみを文学的に深く味わうには、
さらに何が加わればいいのだろうと・・・、
そう考えながら他人事(ひとごと)のように頁を繰り直しています。
遠いようで近いようで遠い。
火花に文学。
ところで今日午後・・・、
ひとりの卒業生から、
「19歳の夏に読む、先生のおすすめの本」を問うメールがありました。
まず、在籍中の大学・学部を考慮して現代小説を二冊回答したのですが、
海外作品・近代作品・古典作品・・・と続けることができれば、
他の人たちにも伝えたいなあと考えています。
もちろん在校生にも学齢と時季に応じてね。
今しか見られないもの、たとえば花火。
今しか燃やせないもの、たとえば火花。
今しか読めないもの、たとえば・・・・・・。
夏の夜の夢のようです。
夏の甲子園の夢・・・、
明日は第一試合も人気カードだと気づきました。
第二試合をゆったりした場所で見るためにいつも同様の早起きをします。
おやすみなさい。
今日も見に来ていただいて、
ほんとうに有り難うございます。
またいつかお会いできますように。