NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

春のことです~思い出してごらん~♪♪

七年前の再会のイメージ。
四年前の元気のイメージ。
三年前の喪失のイメージ。
一年前の回想のイメージ。

定期考査採点の時にねえ、メールで進捗(しんちょく)状況を交換できないのが、残念でたまらないんですねえ。
今、学年末考査の採点をギリギリやっています。 本日中に全4クラス返却。


特にスパゲティが、どうというわけでもなく、
おいしいものには目が無い、っていいですね。

例えば・・・お好み焼きは、コテで食べないといけません、味が変わってしまいます・・・と、豚玉を割りばしで食べようとしていたNPは、同じ豚玉の山本さんに穏やかにしっかり窘(たしな)めていただきました。
ああ、そういうところ、新倉さんに似てるかなあと思いましたよ。敦子さんは、もの静かにイカ玉をコテできれいに召し上がっていらっしゃいました。
(大谷本廟近くのお好み焼き屋にて)


この季節には、少し、いろんなこと、吹っ切れそうです。
皆さんはいかがですか。


昨日朝の出がけに不意のリクエストが、標題の夜メニューでした。
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山本さんにいただいた自家製の「切干大根」と、
敦子さんにいただいた「山椒ちりめんおじゃこ」とで、
次は何にしましょうか。

早よ、採点やらんと・・・そう言い合いながらの無駄メールも乙(おつ)なものでした。

 

21日で予定して下さっていたかた、ほんとうにご免なさい。
22日に十数名の教え子の皆さんと、大谷本廟で新倉先生の分骨御納所お仏壇にお彼岸お参りいたしました。

新倉敦子さまと山本吉久さまに先導していただきました。
敦子さまの手配でお坊さまに読経をしていただき、一人ひとりが手を合わせることを赦されました。

お参り後に会館出入り口近くで、山本さまに持参していただいた中学時代のアルバム(モノクロ)写真集を回していただき、また敦子さまに想い出話を少ししていただきました。
(「高槻の時はトゲが5倍くらいあって、桐蔭ではコンペイトウぐらいになっていた」という奥さまの言葉でした。)

私には、あの最期までの一年間の敬服すべき生きざまが今でも、とても強く心に残っています。
一旦恢復した際に笑顔で会食した想い出のお店へ、いつか必ず山本さんと行こうと思っています。

志と御縁のあるかた、今後は大谷本廟(会館総合受付)で「福成寺(ふくじょうじ)」をお訪ね(尋ね)下さい。
(もしくはtoin08nakat@yahoo.co.jpにメールをいただければ、詳細に御納所をお伝えいたします。)


山本さんにお借りした「愛媛県 宇和島市立城東中学校」の1968(昭和43)年3月発行の記念誌「城東7」から、中3生・新倉和文少年の「修学旅行記」を全文転載させていただきます。学年で選ばれた3名の一人です。

ひとクラス約40名で1~7組まである、第六回卒業生全員の名前と当時の住所も載っています。
大きな中学校ですね、その中で新倉和文少年の氏名と当時の住所は、6組の先頭にあります。
(山本吉久少年は3組です、一緒に行動することが多くて「とても博識で今まで出会った人の中で最も影響を与えてくれた人の一人だった」と22日のお話の中でおっしゃっていました。それは半世紀近く前の想い出の一端なのです。)

以下、原文のままです。


修学旅行記
三の六  新倉和文

 五月七日、午前六時半、私たちは大勢の人々に見送られて、宇和島港を出港した。
 この潮風が、そして、この青い空までが、私たちにとっては真新らしい物のように思われる。長い長い船の時間、何回トランプをしても、何回デッキに上っても船はまだ別府に着かない。吹き飛ばされそうな帽子を押えて甲板に立つ。肌寒い潮風。それでも気持がよい。海。その青い空をみていると、すいこまれそうである。長い船の時間の終りが近づいてくる。何だか騒がしい。おちつかない。どうしてだろう。
 やっと別府についた。同じ日本でありながらこんなところがあったのか、というような顔をしてキョロキョロしている奴がいる。みっともないから真っすぐ歩こう。けれども横を向きたくなる。運転手とガイドの紹介があり、いよいよ九州の旅だ。バスは軽快に走る。ガイドの説明を聞き流すのも惜しかった。なぜならそれは旅行費に含まれるからだ。けれども、説明など、ぼくたちには関係ないように思われる。説明など本で済む。要するに、二つのこの目でガッチリと九州の姿を見て帰ることだ。
 バスの中、それは一見楽しそうで、ありながらつまらないものである。右をごらんください。といわれて右をみる。それは、何々です。次は左をごらんください。---。それから前方に見えますのは--。こんな調子である。聖徳太子じゃあるまいし、そんなに次々といわれてもわかるはずがない。それでも、結構、首の運動になる。残念なことに上下の首の運動ができなかった。右の耳から入った説明が左の耳からぬけ出ていく。それが、何時間も続いただろうか。いやはや退屈なものである。早くも窓にもたれて、第二の世界に入ってしまった。最初からこんな調子じゃ、思いやられる、というような顔をして、ぼくらをガイドが見ていた。あれよ、あれよと思うまに、早くも一日のスケジュールが終わった。
 まってました宿屋です。テレビはあるし、ソファもある。全々気に入った。明日が早いから早く寝ろ。これが我々の合い言葉だ。
 五時四十分起床。宇和島じゃぐっすり寝ている頃なのに、今日もバスの旅が始まる。熊本といえば、印象に残るのは熊本城だ。あの黒くぬられた城をみていると重量感と表現しようか圧迫感といおうか、そういうものが、ひしひしと感じられる。外人旅行客がいた。その中で、十二・三才の少年が石垣を登っていた。その時、何を一番強く感じたか、それは自分の英語の不勉強さである。あの時、ぼくはこう言いたかった。日本人として、「その石垣を登ってはいけません」と。
 西海橋、今でも思いだすと、ほんとうに人間が造ったものであるか疑いたくなる。まるで、巨人が造ったというにふさわしい。いまさらの事ながら、科学の偉大さ人間の知恵におどろかないわけにはいられない。
 別府の地獄めぐり、たいしたこともない。地下熱を少し変えて、観光客に見せるようにしただけである。現存世界でもこの自然の地下熱をなんとか利用しようとして、科学者が研究を続けている。期待される研究課題である。
 いよいよ九州ともお別れだ。目にしみる太陽と別れのテープ。赤・黄・青、色とりどりのテープによって、私たちとガイドさんは最後まで結ばれていた。いつまでも、いつまでもふっているあの黄色い旗が今でも忘れられない。女子の中には泣く者が。わかる、わかるその気持。ほんとうに、今までありがとう。無事ここまで送ってくれて。けれども、それが仕事なんだと割り切ってしまえばすむものを。そこが人間のよいところかもしれない。
 かくして、我々はガイドさんと運転手さんによって無事、宇和島に向って出発できた。さらば九州よ。新婚旅行の時、また会おう。だれかが、そういった。
 宇和島がみえる。ああ故郷宇和島よ。一句浮かんだ。
「宇和島や、ああ宇和島や、宇和島や」
家路に向かう足どり軽し。今日、一日我殿様なり。父・母のニオイに満足、よく眠りたり。
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ご縁と出会いを大切にしたいと、あらためて思いました。

やはり「勉強は大事」ですね。
新倉先生は勉強家でした。


「論文、あと一本」
先生の声が聞こえてきそうです。













 

菊は今、一年中ある花のひとつです。
21日という日に、SPの生け立てです。

22日、今から京都へお仏壇参りに向かいます。

毎年、
秋と春の彼岸の頃になると、
生き方、死に方を本気で考えるようになりました。
これは悪くないな、と思っています。
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