NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

自称 web-writer の知人が、契約更新の時期を控えています。
各種企業をクライアントとする所属会社からの依頼に応じて、自己創作文章を買い取ってもらうという仕事をこなし、二年目で腕を上げています。

NP本日のVS シリーズを読んだ後で、漫画「クレヨンしんちゃん」の父・野原ヒロシの名言を教えてくれました。

「正義の反対は悪じゃない、別の正義なんだよ」というものです。
ネット上では、科白(セリフ)の真偽を含めて、いろんな議論の元ネタにもなっているようです。

正義の対義語は、辞書的には不義のようです。
善の対義語が悪。

「どちらも正義」というのは厄介ですね。


「原発再稼働の差し止め訴訟」で、初めての「差し止め判決」が福井地裁で出ました。
大飯(おおい)など沢山の原発を抱える県での原告勝訴です。

争っている相手は、また「別の正義」という名のもとにあるのでしょうか。
それとも、正義ではないが、不義ではないということでしょうか。

電力会社⇒国=行政。

裁判所=司法。

原告=国民。

「三位一体型対比」に行き着きました。


ところで・・・「VS型」は、NP対比では「対等対比」になります。
従って、「外在対比」の「⇔」とはまた異なるものです。

今日も読んでいただき、有り難うございます。





 

映画『相棒・劇場版Ⅲ』のエンディング。
元自衛官役の伊原剛志(つよし)  と 特命係刑事役の水谷豊。 
標題は決め台詞(ゼリフ)の応酬です。

伊原さん、ひたすら迫力ありますね。
神室(かむろ)という名で民兵集団のリーダー役を見事に演じ切っています。
最後の方で、それまで突いていた(自衛隊訓練の落馬事故で膝粉砕骨折後に退官)ステッキはなぜ不要なのか。

水谷さん、絶海の孤島で紅茶シーンは無理やり。
右京はアームチェア・デティクティヴ(安楽椅子探偵)風で、考察推理中心と思っていましたが・・・、
ハード・アクションの連続で、家人は「普段の右京さんじゃない」とむしろ落胆しています。


「永遠の0」は、戦争がモティーフでした。
「相棒Ⅲ」は、国防がそうです。

平和VS国防は、戦争VS平和に通じてゆきます。
この場合、VSはORに等しいです。

VSで言えば、「劇場版Ⅱ」は・・・
警視庁VS警察庁でした。

今回は・・・
警視庁VS防衛省ということになります。

「いざという時に友人は守ってくれない」
神室は、そうも警告します。
もちろん、友人とは世界の警察を公言して憚(はばか)らない大国でしょう。

・・・しかし、だからと言って・・・
「核は最大の抑止力」
として、核武装を容認してよいのでしょうか。

何もせず手を拱(こまね)いているわけにはいきません。

原発VS(OR)

核VS(OR)

集団的自衛権VS(OR)

九条改憲VS(OR)


VSシリーズ・・・しばらく続けてみます。
(「重複対比」も見直してみます。)

関西ダービー:オリックスVS阪神
大阪ダービー:ガンバVSセレッソ

平和だからこそ楽しめる「VS」を願っています。











 

中三の女子生徒から「トルストイって、どういう人ですか。」という質問を受けて、常日頃もどかしく思っていることを自問自答する機会と捉えました。


トルストイ(1828年~1910年)は帝政ロシア時代の小説家・思想家。ドストエフスキー、ツルゲーネフと並んで19世紀ロシア文学を代表する文豪。代表作に、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。

Wikipediaでは、このようなリード文があり、その下方に詳細な紹介記事。

・・・読めば事足りる、それでいいのかなあ・・・。

ドストエフスキー(1821年~1881年)はロシアの小説家・思想家。代表作に『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』。
 
ツルゲーネフ(1818年~1883年)は19世紀ロシアの代表的小説家。(一段下がって概要で代表作『猟人日記』『父と子』『初恋』など。)


*ロシア帝国・・・1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを初め、フィンランドリボニアリトアニアベラルーシウクライナポーランドカフカーズ中央アジアシベリア満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシアとも呼ばれる。(これもWiki。)

帝政ロシアも19世紀ロシアもロシアも、この場合同じです。
ほぼ200年間に及ぶ支配ですからね・・・
しかし日本の江戸時代が1603年~1867年ですから、これも長期政権ですね。

ちょうど明治維新の頃、トルストイは『戦争と平和』(1864年~1869年)を、ドストエフスキーは『罪と罰』(1866年)『白痴』(1868年)を記しています。


ところで、本題に因(ちな)んで・・・

調べれば分かる客観的な事柄よりも・・・自分自身がどのような主観的な認識を抱いているか、それをどこまで客観化して他者に伝え得るか、が より肝要な時代、それこそが「今」ではないでしょうか。

NPは例えば、『戦争と平和』を「世界一退屈で長い超名作」・・・と言いつつ生徒に紹介します。
先の中三女子は、そこに反応して疑問を書いてくれたものです。


自分の高校時代には、『戦争と平和』も『アンナ・カレーニナ』も苦い挫折の記憶しかありません。
『カラマーゾフ』もそうです。当時は旺文社文庫で読もうとしましたが、凡庸な高校生には無理でした。
(やがて新潮文庫でしか読めなくなり、ようやく学生時代に読了。)

『悪霊』やツルゲーネフに至っては、高校時代に読もうとさえしませんでした。

しかし・・・
トルストイ『復活』、
ドストエフスキー『白痴』、
この二冊は、本当に面白かったのです。
そして読み終えた時の感動や達成感も、まざまざと甦(よみがえ)ってきます。
高校時代の一時期、非常に克明な日記を付けていましたから。

大学時代に再読したとして、・・・三十年以上経ってなお・・・、です。
『復活』冒頭の「春」の雰囲気、ネフリュードフの尖鋭的な言動。[春読むべし]
『白痴』のキリスト教的な対比、ムイシュキンの純粋無垢な振る舞い。[冬読むべし]


今、生徒たちに紹介するとすれば・・・このような「個人的な体験」の方が大切なのでは・・・と思えてなりません。

大江健三郎氏がそうです。生徒にはWikiも参照させますが、切り口としては、長男で脳障害を持って生まれた「大江光(ひかり)」さん、そして、「ヒロシマの光」について、自分の想い出や思いを語る。
まさに『個人的な体験』そのものです。

詳細・具体よりも、骨子・抽象を大事にしたい。

語る人と聞く人とが「共有出来る認識」を、これからも一層求め続けることにします。

だから・・・トルストイはドストエフスキーと対比的に・・・また、いずれあらためて。







 

このページのトップヘ