前回の「群青色」の記事で「フェルメール・ブルー」について、とても心爽やかになるコメントをいただきました(是非皆さまお読みください、懐かしくも清々しい想いに誘・いざな われます)。また、新たに美学生のOMさんから、直接見解をいただきました。

コメントでは、さまざまな「追憶回想の世界」のフェルメール・ブルーを鮮やかに表現していただきました。
また「耳飾りの少女」についての見解では、「引き算の美学」(どんどん消していって最後には鑑賞者と少女しか残らない)「鑑賞者の解釈の自由」(画家自身の認識)「正解を知らない方がいいことがある」(無数の解釈が成り立つ分少女は魅力的)と。

合わせて、「色」は単一絶対では有り得ないのだと、あらためてNPは思っています。
偶々(たまたま)最近、北海道大学の2011年入試問題、中井久夫さんというかたの『私の日本語雑記』という評論を取り扱っていました。その一節です。

・・・私は、たまたま、色彩のエスノ言語学(注:民族言語学)によって、いかに人が色を言語化することの不十分かを知った。普通の市民は高度に概念的に色を見ている。樹を緑に、海を青く、と「固有色」に塗るのが多数派である。・・・しかし、樹は緑、晴れた空は青という「概念化」がなければ、子どもは当惑してしまうかもしれない。人間にとって未曾有(みぞう)のものの色の固定はずいぶんあやふやである。・・・

たとえば「夏色」ですね、ゆっくりゆっくり・・・。

今日は河童忌でした。芥川龍之介が昭和2年7月24日に他界(たかい)したことを偲(しの)ぶ日ですね。その年、東京は暑い暑い夏だったようです、「将来に対する唯ぼんやりとした不安」・・・友人あての書き置きを遺して、東京帝大10歳先輩の斎藤茂吉に処方してもらった睡眠薬(当ブログ「斎藤茂吉」参照)を致死量服薬・・・亨年(きょうねん・亡くなった年齢)35歳、漱石・鷗外を越える天才小説家との世評。

芥川には、昭和2年という時代の色は、どう映っていたのでしょう。
大正8年には、作品『蜜柑』に色鮮やかに描かれているように、深い疲労と倦怠と退屈を忘れることが出来たはずなのに、大正後期・末期に何があったのでしょう。
昭和初期、遺稿の一つとも言える『歯車』には、レエン・コートの灰色を初めとして、赤光、黄色いタクシー、黒と白、等々の色彩が次々と現れ、やがて視界には半透明色の歯車が回り出すんですね。

そんなに目まぐるしく生き急がなくてもよかったのに、ゆっくりゆっくり(ゆず)・・・。