イマヌエル・カントImmanuel Kant) 1724年~1804年、ドイツ観念論哲学・西欧近代哲学の祖と言ってよい。
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』により、認識論・観念論に批判哲学を提唱した。感性と悟性(NP的には、これが判断力)の二律背反の中に理性が存する、あるいは感性と理性の、後のいわゆるヘーゲル弁証法により悟性が生ずる、どちらの考え方もカント哲学の特色と考えられる。

カントの定義する「自由」を、「己の義務の命令に従って、主体的・自律的に生きること」と解釈した説明書を見つけました。これは、わかりやすく、「近代的自由」を教えてくれます。この「自由」ゆえに、近代人は逆に「個人」として「自我」の欲求に「主体」的に応えねばならないという「束縛」を、逆説的に負ってしまったのだと思われます。

漱石『こころ』に出てくる K は、カントの K・・・そう考えると、自らを委ねていた学問・研究・精進の道を踏み外して、恋愛という底の見えない「淵」に喘(あえ)ぐ K の、最後に選んだ生き方(死に方)が見えてきます。

正しい(正しさの定義はあえてせず)道を外れて、「己の義務の命ずる主体的・自律的な自由」を失った K は、(「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」⇒)「道を外れた自分は生きるべきではない」という「義務の命令に従う最後の自由」を見出してしまったのではないか・・・というのが、現時点のNPの解釈です。

同時に、それは近代合理主義の重要素である「自由」に懊悩(おうのう)する、「近代日本人」の典型的な姿でもあったはずです。とすれば・・・近代の、個人主義の K にも思えてきました。

秋分ですね、佳日、好日 の K の響きもいいですね。