文化人類学者の太田心平さん(大阪万博公園・国立民族学博物館=みんぱく=の研究員のかたで、在米コリアンの文化研究などで現在はニューヨーク在住)に、「レヴィ・ストロースよりもメアリー・ダグラス」と教えていただき、「構築主義」に辿り着きました。

「構築主義」・・・NPは「構造主義」との相違が分からず、調べを要しましたが・・・社会的構築主義、社会構成主義(social constructionism or social constructivism)を一般的に指すようで、現実(reality)=社会現象や社会的な事実・実態の意味=とは、すべて人々の認識によって作り上げられていて、それを離れては成立しないとする社会学の立場ですね。

「構造主義」(仏: structuralisme 英:structuralism)・・・先達て簡潔に述べておきましたが、「実存主義」と対比的に補強すると・・・人の存在による主体的・意図的なものとしてではなく、すべての現象は無意識的・自然的に形・意味を成しており、潜在的な関係性を持つ構造を見出すことができるとするもの。

どちらも、言説を媒介とする点では同じでしょうか。後者は、言語学者ソシュールの「言葉」の定義に端を発し、レヴィ・ストロースが「凡て構造ありき」の文化人類学的考察を展開して、「先ず主体ありき」の「実存主義」と反目したという解釈です。1960年代以降「ポストモダン」の中心的思想となり、数学・経済学・生物学・音楽・芸術全般など多分野での応用検証が認められていますね。

太田心平さんによると、「……構造主義。数多くの批判を浴びながら半世紀がたっても、完全に否定も逸脱も出来ない理論ですね。あらためて、すごいと思います。私は、がちがちした触感のレヴィ=ストロース作品があまり得意でなく、むしろ意味論に重きを置いてトロリととろける感じのメアリー・ダグラス作品が好きですが……。」とのコメントでした。・・・「構築主義」、有り難うございます、引き続き御教示下さい。

さて「トロリととろける感じ」のように・・・言語を表面上の意味としてではなく、深層にある内実(内面)的な意味・構造として記号的にとらえようとする・・・それが「構造主義的な言葉論」だとすれば・・・。

近代小説の大きな重要素としての「隠喩」(暗喩・metaphor)は、まさにそのものだと言えます。「直喩」(明喩・simile)は、それを、どうしても読者(あるいは告白の対象者)に確実に伝えたかったため、「指標語」(日本語では「~のようだ・のごとし・みたいだ・に似ている」など)を付けて明示したということ。

例えば漱石は、英文学・英語学を極めて高いレベルで学んでおり[ 東京帝国大学で英文学専攻、学生時代に外国人教授に依頼され『方丈記』の英訳、首席卒業=尤(もっと)も英文学は唯一名=、ロンドン留学時ノイローゼになりながらもクレイグ教授との個人レッスンなど ]、シェークスピア戯曲に顕著な「象徴喩としての花言葉」(当ブログ近出)にも精通していたに違いない、さすれば・・・【不特定多数の中の一個人に宛てた「内面」の「告白」】には、英語的な発想による比喩、特に隠喩が欠かせない・・・。「分かろうとする者のみ分かればよい」という恣意性です。

そうして、「構築主義的な認識」に至るのではないか。作者・読者・研究者は、それぞれ作品の構造を構築して三者三様の作品観・世界観に至るわけです。トリレンマ(当ブログ前出)対比の構造も在り得るかも知れませんね。

芥川龍之介の『羅生門』もそうですが、・・・夏目漱石の『こころ』の「下・先生と遺書」で、先生の「告白」に以上のような「恣意的な哲学」を「援用」して楽しんでいます。

「K」の隠喩
・・・カント・近代・個人・孤独・告白・個室・仮面・こころ・金之助・苦悩・覚悟・神・KILL・化身・言葉・混沌・構造・構築・黒い影法師・決心・・・

これもKふたつ、「牽強付会(けんきょうふかい=こじつけ)」・・・ふぅ、満月に似てテンコ盛り。
読書家・専門家の方がたを問わず、厳しい御批判・御失笑をいただきますように。

雲なきに 時雨を落す 空が好き  (虚子)