NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2012年04月

せいいっぱい、というのはNPが一所懸命(いっしょけんめい)と共によく使う語句ですが、昨日「 π 分の一」(ぱいぶんのいち) という「美しい公式」を述べました。

「知人」の一人に、「(あなたは)数学の窓が小さいように思えます。」と言われて、なるほどと一人ごちた次第です。(一人=独りごつ、独りごちる、は「ひとりごとを言う」という動詞です。) 完π (完敗)。・・・瞳は心の窓・・・窓を大きく開けよう、とクラスで呼びかけることがあります。が、自分自身がいつのまにか窓が小さくなっていてはいけません。・・・「小窓を精一杯開けますよ」と応えましたが・・・窓自体を大きくすることを考えたいですね。

藤原正彦さん(『国家の品格』で有名な数学者、お茶の水女子大学名誉教授、作家の新田次郎・藤原てい夫妻の次男)の『若き数学者のアメリカ』『天才の栄光と挫折  数学者列伝』『世にも美しい数学入門(小川洋子さんとの共著)』を読み直してみようと思います。
「π分の一」など「数学の美しさ」をもっと詳述している文章も、さらに捜しています。

今までのあらゆる記載内容に関して、随意に(ずいい・好きなように)「コメント」をお寄せ下さい、鶴首(かくしゅ・今か今かと待つ様子)しております。

radiation  &  radioactivity    昨日、これを呟いていたら、すぐそばにいる「知人」が、なんて不気味なこと言ってるんですか、と「耳聡(みみざと)く」聴きつけて目を丸くしてくれました。英語を聞いて英語で考えて、すぐに反応(表現)できるのはいいですね。
・・・ 前者はそれ自体・後者はその程度(能力)ですね。
⇒⇒⇒ 「原発再稼働」に、官房長官が答弁する時の顔つきは、到底(とうてい)日本の安全を、現在・未来を背負っているようには見えませんでした。この人は、上の単語の相違を知っているのだろうか。知人の在日外国人が身近なところで日本から「退却」してゆく、その双方の哀しみを分かるのだろうか。・・・無惨、「閑却」。

「ビュフォンの針」・・・平行な線分の間隔の半分の長さの針を、その線分の上から投げ落とした時の、針が線分にかかる確率は?
・・・  間隔の幅をd、針の長さをl   とすると、その確率公式は、「 π d  分の 2 l  」、よってこの場合は、「π 分の1 」 なんですね。数字と公式自体は「美しい」ですね。・・・ 統計は積分? 
⇒⇒⇒「原発安全性」にも「危険(例:震災・津波・人為的事故・メルトダウン)の確率」は算定されたのだろうか、どうしてその安全性を納得できる統計資料や数字で「公示・公開」できないのだろうか。「脱却」するための数字・統計・公式は、それこそ「瓦礫(がれき)の山」のようにあり、「尊くも悲惨な死者」のようにそこかしこに横たわっているのではないだろうか。心頭「滅却」(雑念・妄想を無くしてしまうこと)して、虚心坦懐(きょしんたんかい:わだかまりのないすっきりした心) となっても、到底、甘受(かんじゅ:やむを得ず、がまんじて受け入れること)できない。

造語力の強い漢字」の一つに「」があります。
・・・「しりぞく・さがる・おさえる・かえす」が基本の意味。
閑却(かんきゃく:いいかげんに取り扱うこと・重要ではないと放っておくこと)・脱却・退却・滅却・棄却・忘却・焼却・償却・消却・困却(むずかしい事態に困り果てること)・売却・没却・返却
却下・却行(あとずさり)・却座(=却坐:しりぞきすわる)・却説(ところで、さて)・却立(さがって立つ)・却是(かえって・実は)
⇒⇒⇒ すべて原発関連語句のように思えてならないですね。

ずっと英会話の個人レッスンに、週1で、LAZYな生徒として通っていました。その教室の経営者で「知人」の彼が、VISA申請が降り次第、母国オーストラリア(パース)に、日本人の奥様と小学生のお嬢様二人と、一家で出国(帰国)移住するという「手紙:ほぼ日本語、奥様が推敲(すいこう)されたもの」を昨夜教室で渡してくれました。

かなりショックでした。(IDLEとLAZYの語感の違いもサイモンなら簡単に教えてくれました。)
しかも、移住理由の一つは、(それはNPから質問したのですが)やはりRADIATION(放射線)だと答えたのです。The   accident   released   a   lot   of   radiation. 

サイモンは三島由紀夫に魅(ひ)かれ日本に来て、村上春樹も読んでいるのですが、12年間以上、あの数年前に破綻した大手の英会話学校で、指導者を育成するTUTOR 兼 INSTRUCTOR&TEACHER として、大阪・東京・奈良のいろんな街の教室にいたことも初めて知りました。一番好きなアイルランドの小説家 ジェームス・ジョイス の原書を貸してくれたこともあります。(もちろん、挫折・・・LAZYとIDLEについて身をもって知った。あ、でも貸してあげた村上春樹の『1973年のピンボール』英訳文庫本は、彼も頓挫・とんざ・・・ここにも重複対比・対等対比が・・・)

哀しくて寂しいけれども、I   miss   you,  Simon.  と思い切って言ったら、Me too,  Hiroshi.  と即座に返してくれました。・・・残り少ないレッスンは、即座に使える便利会話特集&四方山・よもやま話(英語で何て言うのでしょうね、今度尋ねてみます。)ということになりました。

BY THE   WAY・・・藤原正彦さんの『祖国とは国語』の中に、「ビュフォンの針」に関する(と思われる)文章(「この世は数学だらけ」)を、見つけました。最近「知人」の「数学のカリスマ」の一人が授業で小展開していて、「あれは積分でね、文系の諸君にも知識教養として聞いてもらいますよ。」とのことでした、記憶の片隅で読んだことがあって、しばらく捜(さが)していたものです。「美しい数学」の象徴的な例の一つだと感じています、また後日。

今日から、漸(ようや)く春スーツにします。旧暦だと、「閏弥生(うるうやよい):今年は時差調整のため三月が2回あります。)」の3月4日、2回目の桃の節句の「つとめて(翌朝)」、久しぶりに カシオペア(昨日、携帯ワンセグで向谷実さんを発見)のユニゾンを聴いてみたくなりました、捜します。

 

【「結」を三つの塊(かたまり)の連鎖で列挙】

春寒・卒業式の日・カレンは来なかった。
両親が鬱陶しくて・ホテルでの謝恩会・宗教の勧誘だけはやめて欲しい。


寒い・
休学する・一年後に戻ってきて、あと一年をやり直す。 
一年前・カルト脱会で意気消沈した親たち・お情け頂戴はイヤ。
 
落とした単位・春は立ち遅れ・夏の愚痴
秋もうどうでもよくなって学園祭ではじけて・冬の取りこぼし単位

 
自分って何・今やりたいことがやれない・このあとやりたいことはやれないだろう。
メビウスの輪・クラインの壺・まわるめぐるもどる。
父よ母よ・不気味な不条理感・お前はほんとうにお前なのか。

やめる・試験も卒業も就職も自分も・卒業式の日東北にいる。


ワタシはユカでもカレンでもない・ユカでもありカレンでもある・二つ歩んできた。
ユカは大阪・茨木生まれ・父母ともに宗教法人の団体職員・少し気が弱いがひょうきん。
カレンは千葉・旭から来た・優柔なチチハハ・気丈な美形で割り切った言動。

ユカは卒業謝恩会が続くホテル・父母を気にしながらも笑顔を振りまいている。
カレンも同じ場所・二人ともそこにいないと言ってもよい・カレンはひとりで東北の温泉
宿。
震災の時と同じように自分を捨てるために、認めるためにそこに来た・休学への決意を堅固に。
卓球は出来ない・ユカでありカレン・
もうすぐ春分の日、冬物語は終わっているのに寒い

 
⇒⇒⇒ゆかを浅く、カレンを深く描写。ユカとカレンで一体化、多様な面で対照的に設定したが、「重複対比・内在対比・外在対比」の三つのを実践的に使用。進行中に、次第に「対等対比」や「並立対比」ではなく、「同格対比」であることが浮かび上がってくる。さらに次のキャラの登場で、「トリレンマ対比」であることを打ち出す。


弁護士志望のフリーター・ある女ともだちと不思議な出会い別れ
秋の終わり頃最初カレン・途中からユカ・やがて一体化
同じであり別人・有り得ないシチュエーション・それぞれ付き合った
会っている途中でも変身・何がどうなっても驚かない・妄想の中
冬の終わり頃フタリと別れ・ヒトリは幽閉・ひとりは自分が分からない
一年近くが過ぎ去った・また冬が終わる・僕もまた終焉に

⇒⇒⇒しかし、次の医者の言質(げんち=証拠となる言葉)で、「三位一体対比」が判明する。三者の重複対比である三重人格はきわめて稀であろうが、実在の可能性は否定できまい。


一年ぐらい出ていなかった弁護士志望の男・稀なケース・ワタクシ
夏目漱石『彼岸過迄』・完結の頃合・終わらずにストーリーは続いて
一個の人物に関する三通りの冬物語・ピリオド・フタリの女とヒトリの男を持つ三重人格者のケースについて彼岸過ぎに

⇒⇒⇒そして、カタカナとひらがなの反転したイタリック(斜体)字の「終章・エピローグ」で、この物語の本質を物語ったつもりであるが、読み手に届いただろうか。
 
 
  ぴりおどハ本当ニ打タレタノダロウカ、かるてヲ記シタ「医者」ハ本当ニ別個ノ・・・?

⇒⇒⇒つまり、これが「虚実の皮膜」。『冬物語2012』の作者自身が、カレン・ユカ・弁護士志望の男・カルテを記した医者・・・の分身を持つということ。多重人格的な舞台様相を呈して幕は降り、カーテンコールを待つNP・・・よくよく鑑(かんが)みると、登場人物すべてに作者自身が分散投影されているという、至極当然の「小説創作の方法論」が、ここにあります。

 

NPの学士論文・修士論文は、福永武彦さんという作家の小説論で、特に『死の島』という長編を眼目にしていました(「悲惨」な出来でしたが・・・)。その対象作品のハードカバー(単行本)には、作中関連・年月日のカレンダーと、登場特急列車・通過駅時刻表とが付録として挟(はさ)んでありました。・・・この小説には複数のエンディングが用意されていて、その最後の一つに、当時の大学三回生は眩暈(めまい)を覚えるほどの衝撃を受けました。
いつかは、『死の島』のような小説を書きたいと思いながら、四半世紀(しはんせいき=25年)・・・ん?・・・これも「虚実の皮膜」ということで・・・。

ふう、「冬物語」の終演で、やっと本当の春が幕を開けます。長い長い冬でした。現実生活でも、琵琶湖への旅を終えて、牡丹桜(ボタンザクラ)見頃の生駒山麓に戻ってきました。明日からまた「日常物語」が続きます。

 

      

   春寒にふさわしい、卒業式の日だ。彼女カレンは、かれんに腕押し(うわっ)来なかった。卒論単位だけじゃなく何コも落としたって聞いていたから、来るはずもなかったけど心が痛かった。学園祭をあんなに盛り上げて、ゲストに呼んだお笑いタレントよりも舞台で喝采を受けた、わたしの親友ミス・ガクサイは、華々しく散ってしまった。・・・残ってどうするの、一刻も早く親の干渉を離れるのがいちばんじゃなかったの。だからわたしは我慢に我慢をして、チッポケな食品会社に自分を叩き売ったのよ。大安売り、と彼女が言っていた会社(彼女は丁寧な就職辞退書を最近郵送した)よりも、もっとずっと格下だけど事務職ならもうどこだっていい。
 
 今日は・・・そう、関西からやってきた両親が鬱陶しくて、早く離れたくて仕方なかった。式だけでもウンザリだったのに、ホテルでの謝恩会に親まで参加できるなんて、行ってみて初めて知った。お願いだから、宗教の勧誘だけはやめて欲しい、それをやったら、わたしは即座に親子の縁を切る。

 

寒い寒い寒い、ほんとうに春は来るのだろうか。ゆか、ごめんね、せめて最後にいっしょにヤキニクって言ってくれたのに。・・・休学する、一年後に戻ってきて、あと一年をやり直す。斎藤先生もあっさり了解してくれた。私が言い出したら聞かないこと、よくご存知だわ。

 

・・・一年前、欠席し続けている時もそうだった。随分走り回って、他の頑固教授たちを説き伏せて、後期テストを提出物に替えてくれたのに、私はとうとう幾つも出さなかった。カルト脱会で意気消沈した親たちを目の当たりにして、まったくヤル気が出なかったこともあるけど、とにかくやっぱり自分で納得できないことは、やりたくなかった。お情け頂戴はイヤ、それだけだ。
 
 落とした単位は震えるほど私にのしかかってきた。・・・春は立ち遅れたけど、震災復興ムードの被災地優遇採用とかに助けられて、なんとか就職内定をもらった。夏、ユカと徹夜で話し合って、まだどこにも決まってない彼女の愚痴をたくさん聞いてあげたけど、私こそ放り出したくなる自分のことを、聞いてほしくてウズウズしていた。言えないままに秋、もうどうでもよくなって、前期の試験を受けまくった。間に合うようになった・・・らしかった、卒業に向けて。安堵感からハイテンションのまま学園祭ではじけて、それから冬が来た。去年後期の取りこぼし単位が猛烈な寒波のように私を襲った。

 
  こんなに苦しんでいる自分って、いったい何なんだろう。今やりたいことが、あの時やれなかったことのためにやれない。このあとやりたいことは、今やれないことのためにやれないだろう。いつまでもいつまでもメビウスの輪、クラインの壺。まわるめぐるもどる。
 ・・・父よ母よ、あなたがたのせいだとは言わない。ユカだって、親のことで悩んだけど、最後は自分を守り切った。私も、同じ。でもそこからが違う。かたちを変えて、その不気味な不条理感みたいなものが常に私を苛むようになった。・・・今やっていることは、ほんとうにお前のやりたいことなのか。お前はほんとうにお前なのか。

 
 や・め・る、試験も卒業も就職も自分も。・・・こうして私は、卒業式の日、東北にいる。


  ・・・ワタシは、ユカでもカレンでもない、もしかすると、ユカでもありカレンでもあるのと同じ意味で。大学進学後、ワタシはユカの生き方と、カレンのそれとを、二つ歩んできた。

 ユカは、大阪・茨木生まれで父母ともに宗教法人の団体職員だ。少し気が弱いが、ひょうきんなところがあって憎めない。
 カレンは、地方都市の千葉・旭から来た子で優柔なチチハハを持つ。気丈な美形で、割り切った言動が魅力。

  ユカは今、華やかな卒業謝恩会が続くホテルにいて、父母が余計なことを言い出さないかと気にしながらも、担当の先生連中を相手に笑顔を振りまいている。
 カレンも、実は同じ場所にいる。いや、二人ともそこにいないと言ってもよい、なぜならカレンはひとりでひなびた東北の温泉
宿にいるからだ。彼女は、震災の時、あの時と同じように、どうしても埋め合わせることの出来なかった自分を捨てるために、もしくは認めるためにそこに来た。休学への決意を堅固にするためでもある。でも卓球は出来ない、ワタシは、ユカでありカレンなのだ。


 もうすぐ春分の日、とっくにワタシの冬物語は終わっているのに、あと少しだけ寒い・・・

 

 


  僕は弁護士志望のフリーターだ。一応、司法事務所で雑務をさせてもらっているが、コンビニバイトと時給は変わらない。
 ある女ともだちと不思議な出会いをした、また別れもした。秋の終わり頃、いつものネットカフェで隣に座ったカノジョは、最初カレンと名乗った。途中からユカとも自称して、やがてカレンとユカは一体化していった。・・・何と言ったらいいのか、同じであり、別人なのだ。もちろん、慣れるまでは大変だったけど、自分でもこの有り得ないシチュエーションを楽しめるようになった。僕は、会うたびに今日はどちらなのかを何気なく確かめてから、それぞれを付き合った。そして次第に、会っている途中でも、その変身が起こるようになった。もうその時には、僕は何がどうなっても驚かないようになっていた。全くわけが分からないけど必死の形相で言い出したカルト宗教から、カノジョが抜けるのを手伝ったこともある。当然、カノジョの妄想の中で僕は傍らに付き添っていただけだ。
 年明けて冬の終わり頃、僕はカノジョと、いやフタリと別れた。
 ヒトリは実家にずっと幽閉されていて、あの震災後は東北にいると言い、もうひとりは自分がどこにいるのか分からないと言い出していた。
 
 年齢より老けて見られるのをいいことにナンパな生き方をしてきたが、こんなのは初めてだった。・・・一人の女性と別れたはずなのに、僕は二人と別れたことになっていたのだから。カレンはしばらく姿を消していて、その間ずっとユカが現れていた、確かその頃だった。つらくも悲しくもなく、何だろう不思議としか言いようのない経験だった。
 それから一年近くが過ぎ去った。また冬が終わる、完全に姿を消す。そう、僕も、また終焉にいる。


  一年ぐらい出ていなかった、弁護士志望の男が現れた。
 
  ・・・きわめて稀なケースを、ワタクシは記してきた。夏目漱石は、後期三部作のひとつ『彼岸過迄』を、新年早々新聞に連載し始めて、その題名は完結の頃合を見計らっていたそうだ。そうはうまく終わらずに、ストーリーは続いていったのだが・・・。

 ワタクシもまた、今、ある一個の人物に関する三通りの冬物語にピリオドを打つ。フタリの女とヒトリの男を持つ三重人格者のケースについて、・・・彼岸過ぎに。

 
 
  ぴりおどハ本当ニ打タレタノダロウカ、かるてヲ記シタ「医者」ハ本当ニ別個ノ・・・?

 

 

 

 

      


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