NPブログ - Leitmotiv ~言葉・論理・主題連鎖への旅~

2012年06月

漢検・準1級レベル・・・かな。これらを書けないと通りませんね、準1は・・・。

1仄聞する  2郭公(2通り)  3松魚  4覗く  5馳せる  6雑ぜる  7如何(2通り)  8冷汗三斗  9途轍も無い  10顰蹙を買う  11頁を繰る  12苛々する  13司る  14大袈裟  15纏わる(2通り)  16覆い被さる  17錚々たる  18灰汁が強い  19柑橘  20爽やか  21手繰る  22蒔く  23聞き質す  24括る  25俯瞰する  26措定  27硝子  28障子  29檸檬  30雑魚寝  31相殺する  32牽強付会  33呆れる  34生半可  35堪能(2通り)  36聳える  37佇まい  38御伽噺  39準える  40唱える  41泰斗  42艶やか(2通り)  43囃し立てる  44甦生する  45嵌める

以上、前回以降に用いられた読み仮名漢字。受けてみたいと今日コメント下さったかた、他の来訪者のかたも是非チャレンジを。
合格点は・・・ズバリ8割つまり36個。2・7・15・35・42は、それぞれ2通りありますから、計50個とする時は、40個がボーダーライン。コメント欄に答案をいただくか、次週中に公開の解答を待って下さいね。

真珠の耳飾りの少女…青いバンダナと光の使い方が魅力とか。東京公開の後、神戸に来るんですね、本物が。
何としても見に行きたい。

青山学院大の福岡伸一教授が「深読みが出来る」と仰っていますね、生物学の泰斗(たいと=「泰山北斗」の略・その道の大家)ですが、フェルメール・マニアだとか。「少女は何を見つめているのだろう」と・・・。

積丹半島の海にシャコタン・ブルーを見ていた旅人たちは、そこに「神秘」を見ていたように思えます。
一方、シャコタン・ブルーのソフトクリームが売られていて、「単なるブルーハワイ」とカキ氷風の艶(あで)やかな着色を囃(はや)し立ててもいました。

「聖と俗」を感じますね。
少女が見つめているものは、「俗」であるに違いありません。

だとすれば、ブルーは、その聖界と俗界を繫(つな)ぐ色かもしれません。
・・・6月はメランコリック・ブルーとレイニー・ブルーの月でした。

ところで、ブルーについては、梶井基次郎『檸檬』の「結」、丸善書店の画本売り場における奇妙な取り合わせを、次のように解釈しています。

赤(情熱・躍動・生青(冷静・暗欝・死⇒⇒黄(爆弾・新生・再生)

赤と青の画本を重ねて積み上げた後、その上に檸檬一個を措(お)いて、作者らしい主人公は生き生きと立ち去るのです。主人公が、生(宿命)の中で死(致命)を想いながらも、妄想の爆弾を「新措定(ジンテーゼ・合)」として蘇生(=甦生・そせい)する、という「弁証法」をこの作品世界に当て嵌(は)めています。

さて・・・近々読み仮名だけで、第5回ラモ検(当ブログ専用の漢字・語彙力認定試験、恒例の月イチ「ライトモティーフ検定」)実施します、範囲は第4回検定以降、是非ご参加を。

イギリスのKさん、いよいよロンドン・オリンピックまで一か月を切りました。長い休暇が続いているのでしょうか、それとも・・・。ラモ検受けて下さいね。

積丹半島の島武意(しまむい)海岸から神威(かむい)岬を回って、シャコタン・ブルーと言われる海の青(碧・みどり 混じり)を見てきました。
午前中の小樽自由行動は雨に祟(たた)られましたが、北西の海岸線に出る頃には奇蹟(きせき)的なぐらいに晴れ上がり、空の青と海の青の接する所を堪能(たんのう)できました。「シャコタン」とはアイヌ語で「夏の村」だそうです。
いくつかの選択肢からこのコースに決めて、天候を祈っていた同行者たちは大喜びでした。

海辺へ突き出たように聳(そび)える、巨大な原発施設の佇(たたず)まいを遠目に見ながら泊村に入り、「PR型無料テーマパーク・とまりん館」の広々とした駐車場にたった一台として、60人乗り観光バスは到着しました。

北の大地で唯一の泊原発、全3基の稼働時には、たった1か所で北海道の全電力消費量の約4割を供給していたようです。それを、水・火・原子すべての発電所ランプが種別に点灯する北海道全図パネルと、供給率が光る円グラフとで、まざまざと確認するという仕掛けがありました。

発電所の固定資産税や国の電源開発交付金により、同村は北海道内の市町村で唯一、地方交付税を受け取っていない不交付団体。北海道知事は、震災後5か月時点で、いち早く再開(営業運転への移行=当時は調整運転中だったので再稼働ではない・・・)を容認していたんですね、なるほど。知事は、経済産業省の官僚出身で、北海道電力関係者からの高額の個人献金を受け続けているとか、ふむふむ。・・・こういったことは、資料館展示にはもちろん記されていませんでした。

北海道全体で、市町村別では最もガン死亡率の高いのが泊村だというデータ(平成13・15・17年の3か年)も帰阪後に見つけました。最小の千歳市の約4倍。
村の財政は原発関係に「7割」依存。「7割で人を奴隷にできる原子力マフィア」「魂を売った泊村」という小見出しも、そのデータの近くに躍(おど)っていました。村長を痛烈に批判する記事もありました。・・・しかし、これは「泊村御伽噺(おとぎばなし)」ではありませんね、「日本今噺」。福井県大飯原発の再稼働を目前にして、「おおい」と呼ぶ声に、「とまり」も、停止がとまりそうです。

以下の図式は「予定調和」だったのでしょうか。今、ヘーゲル弁証法での是非を問い質します。
いいのですか、これで?

           安全性公言の再稼働
                     
震災不安・レベル7事故 ⇔  原子力発電の安定供給

「近代合理主義の終焉」同様の「破綻への象徴」としてしまっては、絶対にいけない。

    知識
        
真理 ⇔ 信念

知識を、あえて信念・真理の上位に置いてみました。前述の「プラトンの知識」を、「現代の弁証法」として信じたいものです。
「フィヒテの弁証法」にも似ています。「自我」を「非我(彼我)」にぶつけて「主観的世界を正して広げる」、これが「知識学」の真髄(しんずい)でした。
「カントの認識論」に準(なぞら)えます。「思考的な純粋理性」と「行為的な実践理性」から「判断力」は昇華する・・・。

せめて節電を続けて、再稼働NOと唱(とな)えます。

「語るに落ちる論理」という標題の時にいただいた某コメントと関連しています。合わせて御一読を。
〈原稿落ち〉    
                         和賀英良


 私の復讐。彼の復讐。そして、亡き妻の復讐。

 私は花瓶を壁に投げつけた。

 

 

 妻は記憶を消したがっていた。よく私のような男と結婚したものだと思う。

 結婚当時、私は幸福の絶頂にいると思った。彼女もそうなのだろうと思い込んで疑わなかったが、あるいはそれは私の願望だったのだろう。今の私などよりはるかに辛い経験をした彼女が、そう簡単に幸せを感じられるわけもなかったのだ。

 だんだんと妻が信じられなくなった。私といることに不満を感じている。そう思うと、どうしようもなく腹が立った。些細なことで怒鳴り散らし、愚かな女と罵った。腹の中には私の子がいた。 私は今、その報いを受けているのだろう。

 食事中、母が言う。「この子の勉強も少しくらい見てあげなさい」

 私は言葉通り、食後の彼の勉強を見てやる。歪んだ人間を見ていると国語だけは異様に出来るらしい。部屋に入った途端、「これ、読んでみなよ」と挑戦的な笑みとともにどこからか引っ張り出した問題文を差し出されたことがある。

「これがどうかしたのかい?」

「僕が嫌いかい?」

「何故そんなことを訊くんだ?」

「ちゃんと読んでないだろ」

「どういう関係がある?」

「僕を理解する気なんかさらさらないんだろ」

「そんなことはない」

「じゃあどうしてこれを読ませたか当ててみろよ」

 文章に目を落とす。内容が頭に入ってこなかった。

 私は全ての記憶を消したくなった。この際全てを忘れてしまえば、何を言われようと楽になるのに。

「バカだなあ……。これ、あんただろ」

 頭の中で〝知るか〟と呟く。相手が妻なら口にしていただろう。

 罵りを胎教として育った彼の復讐だった。

 妻は全ての記憶を消したがった。幼い頃のものも、私といた間のものも。母は妻を支えようとはしなかった。妻を支えたのはお腹の子だけであった。

 

 子が生まれると、彼女の支えは潰えてしまった。体内に子供がいる間だけ、彼女の身体は不可侵だった。外に出てしまえば私の分身にすぎない。寝ている彼女の手が、隣の赤子の首に五ミリと離れない位置にあったのを、母は何度も見ていた。無論、私にはそんなことを教えもしない。結果的にはそれでよかった。教えられていたら何をしていたか分からない。

 いや、本当に良かったのかと問われれば、最後の最後には同じことだったと言わざるをえない。私が刑務所に入らずにすんだだけだ。むしろ入っていた方が楽だったかもしれないと思う羽目になるのだが。

 母が妻を見舞った晩、彼女は病院をフラリと出た。

 急患を運ぶ救急車は、ちょうど交差点を突っ切って病院へと走っていた。

 女の身体は突然現れたそうだ。

 花瓶が砕け散る。一瞬にしてただの破片に姿を変える。

 私が投げたのか。あるいは花瓶は自分の意志で砕けたのか。

 壁に傷が入った。救急車のバンパーがへこんだ。

 妻の記憶は消えた。幼い頃のものも、私といた間のものも。何もかも。自分を消すことでしか、記憶を消すことは出来なかった。そうしてようやく、彼女の願いは叶ったのだ。

 そしてその出来事は、私の記憶に消してしまいたい事実を彫りつけていった。時折私は、花瓶を割るときのような衝動を持って包丁を持ち出す。その衝動が自分に向いていることをひたすら願って、それをしまう。単純な動作が全てを救うこともある。

 だから、私の彼への愛は本物だ。それを愛と呼ぶならば。

 

                                      ─続─

 

 

 

 

四泊五日の北海道旅行に出たのですが、台風4号のために関西に戻れなくなり、札幌で一日延泊となりました。・・・思い起こせば、一年3か月前、六泊七日のカナダ旅行に出た時、震災のために戻れなくなり、やはり、なぜか北海道で一日延泊となりました(当ブログ「東日本大震災の時」参照)。
エアカナダ機は成田空港に着陸できず旋回を繰り返した後、緊急着陸で茨城空港(同行生徒の指摘では茨城基地)に、さらに機内待機で数時間後に受け入れ先の新千歳空港に・・・国際線ロビーにて段ボールと毛布で雑魚寝(ざこね)。

今回帰阪後、いろんな方に言われましたね。・・・何を持ってるんでしょうね、ふ~む。

さて、ずっと「弁証法」的な読解を試みています。評論も小説もすべて、これを適用して説明しています。換言すれば・・・+と-がぶつかったはずなのに、0にならずに、++(ダブルプラス)になる着想の思考法と言ってもよいものです。だから、強弁(=こじ付け・牽強付会けんきょうふかい)の時もあります。近代を支配してきた「合理主義」の根幹と言ってもよいですね。いろんなところで破綻が生じて、「終焉」や「ポストモダン(近代以降の現代)」に繋がってもいますね。

          延泊を楽しむ期待感
                 
台風で帰れない不安感 ⇔ 帰阪できる安堵感

高尚(こうしょう)になると・・・
アントニオ・ガウディの「サグラダ・ファミリア聖堂」の場合

         生命の美
             
石・自然の崩壊   ⇔ 人間の工作
   (死)          (生) 

これは、山口真さんという方が、5年前に大学入試国語マガジン「学燈」で仰っています。

「生」と「死」の「衝突」が「美」だという発想は、とても共感できます。・・・村上春樹さんは、『ノルウェイの森』の一節で、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する。」と記しました。NPも、生と死を「内包対比」で捉えています。・・・が、「矛盾・反発・相殺(そうさい=打ち消し合う)」ではなく、「否定・衝突・止揚(しよう・アウフヘーベン→高次元への発展)」と考えると、「外在対比」でも興味深いですね。松山ケンイチ主演の映画でもそうでしたが、生と死のぶつかりあいから美が生まれる、「昇華(しょうか・願望などが高いレベルで転じて働くこと)」と呼ぶにふさわしいですね。

何か持ってる、もそうでしょうか。

       何か持ってる
             
持ってるものが ⇔ 持ってるものが 
見えない        見える

追加です。本日 カント→ フィヒテ→ ヘーゲル、というドイツ観念哲学の一つの流れを語りました。それも全て弁証法的にしました。

①カント[認識論]
         判断力(悟性)
              
実践理性(感性的) ⇔ 純粋理性(アプリオリ)
   【行為的】         【思考的】

②フィヒテ[知識学]   
      主観的世界
          
非我(彼我) ⇔ 自我(自己自身)

③ヘーゲル[弁証法]
      ++
       
     - ⇔ +  

*ついでにギリシャ哲学のプラトンの「知識」を、こう理解するものです。
       知識
        
   真理 ⇔ 信念

以上は、もしかすると、すべて「重複対比」(類比)なのかもしれません。重複部分を、止揚(昇華)的に見るか、単なる集合の重なりと見るかですね。
・・・倫理の専門家に呆(あき)れられそうです。まさに「何か持ってる」は、「知識を持ってる」としたいところですが、生半可(なまはんか)で顰蹙(ひんしゅく・顔をしかめたり眉をひそめたりすること)ものです。

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