NPブログ - Leitmotiv ~言葉・論理・主題連鎖への旅~

2012年10月

芥川龍之介全集第1巻(昭和29年・新書初版)所収 『羅生門』 の表記を用いてみます。

A その代り又鴉(からす)が何處(どこ)からか、たくさん集つて來(き)た。…その鴉が何羽となく輪を描いて、……。殊(こと)に門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたやうにはつきり見えた。

B  下人は、何を措(お)いても差當(さしあた)り明日の暮しをどうにかしようとして、……。……。……どうにもならない事を、どうにかする爲(ため)には、手段を選んでいる遑(いとま)はない。……。さうして、この門の上へ持つて來て、犬のやうに棄てられてしまふばかりである。


C 羅生門の樓(ろう)の上へ出る、幅の廣(ひろ)い梯子(はしご)の中段に、一人の男が、猫のやうに身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子(ようす)を窺(うかが)つてゐた。

D 下人は、守宮(やもり)のやうに足音をぬすんで、やつと急な梯子を、一段上の段まで這ふやうにして上りつめた。

E [これらの文章の後は、さらにこう続きます・・・。]「土を捏(こ)ねて作った人形のやうに…ごろごろ床の上にころがってゐた。」「…猿のやうな老婆である。」 

「起」と「承」から、まず、以上のような (この「ような」は例示ですね、念のため。あ、Dの二つ目は「様態」にも取れますね。) 箇所を引用してみます。

前回の①②③は暗喩(メタファ)の例として、いずれ回答をと述べましたが、そのうち、鴉(現行の高1生対象教科書「国語総合」では、烏・からす、と表記されていたりもします)については、上記のように「直喩」で初登場します。

「直喩」を、NPは「粘土細工のようだ」と考えています。

そこで、イメージを鮮明にしていただくために、「粘土細工」の素敵なブログを紹介いたします。
今回、「粘土細工 ブログ」で検索したところ、実に驚くほど800以上かな、アップされていました。
その中でも「ランキング」にノミネートされていて、先月始めたばかりなのに流石、このラインナップは素晴らしいと応援しています。

「れもんのいれもん」
ブログもしくはホームページ自体を直接紹介させていただくのは、NP自身の講義DVD販売元(さりげなく宣伝)「潮江(うしおえ)アカデミー」に続いて、確か二度目だと思います。是非、行ってみて「直喩のような擬似・類似感覚」を味わって(本当に味わうものが沢山…)下さい。もしかしたら、もう人気ブログなのかも知れません。
http://remonnoiremon.blog.fc2.com/

・・・で、当ブログでの、「隠喩」のからすも「直喩」の鴉も、結局お話は後日いずれということに・・・。

さらに、追伸です。先日お知らせした文化人類学者のかたに、このブログでの紹介の許可をいただきましたので、「構造主義」とともにいずれ(いいなあ、この柔和かつ甘美な響き「izure」)語らせて下さい。





極論から入ります。
冒頭で明示される主人公の「一人の下人」は、孤高な芥川龍之介自身、「羅生門の下」は夏目漱石の門下生としての入口、「雨やみを待っていた」「暮れ方」はデビュー前の作家として悩み佇む暗鬱。

隠喩(暗喩)の奥深さとして、首肯(しゅこう・納得すること)していただけるしょうか?

・・・噴飯物(ふんぱんもの・馬鹿馬鹿しいこと)、証明不可能ですね。どれほど意図的に故意に芥川が書き始めたとしても、そこまでは意識しているはずもありません。

しかし、読者の恣意的な解釈としては面白いのではないでしょうか。1915年(大正4年)11月に「帝国文学」に発表したこのデビュー作により(親友鈴木三重吉の紹介で)「鬼神の集結する=羅生門・羅城門の鬼伝説」漱石の門をくぐり、わずか12年の(その時点では「行方は、誰も知らない」)「黒洞々たる夜」そのものの作家生涯へと、残り人生の暗黒を示す「夜の底へかけ下りた」と、符合性を読み取るのです。

もちろん傍線部は作品末尾近くの印象的な表現箇所、これもまた巧妙な隠喩、と言えば強引でしょうか。

以上は、かなり飛躍した隠喩例かもしれませんが、「起」で次の三つはどうでしょう。

①大きな円柱(まるばしら)に一匹とまっている「きりぎりす」(現在のコオロギ、下人がはしごを上る前にどこかへ行ってしまう)。
②どこからかたくさん集まってきて飛びまわっている「からす」(胡麻・ごまをまいたように、と直喩表現もある)。
③右の頬にできた大きなにきび(「承」を経て「結」でも「赤く頬にうみを持った大きなにきび」と表され、さらに「不意に右の手をにきびから離して」と帰結)。

回答(解凍かな、少なくとも解答ではありません。)例は、いずれまたあらためて。

さて、【隠喩・換喩・提喩について】

隠喩は、文字通り「隠された」「暗示的」な意味合いですね。上記例 ↑ 参照。

「隠喩」に内包された比喩である「換喩」は・・・
イメージ力の強さを借りて異なるモノで言い換える比喩です。時として、近接的・関連的です。
バッハを聴く。   ⇒ (表現)バッハ=人 : (内実)バッハの曲=物
赤頭巾は思った。 ⇒(表現)赤頭巾=物   : (内実)赤頭巾を被った女の子=人
ゆえに、人(物) ≠ 物(人) という 「≠換言」の関係になります。

さらに「換喩」に内包された比喩である「提喩」は・・・
上位概念・下位概念の関係を用いて提示する比喩です。時として、内包的・外包的です。
鳥を食べたいな。       ⇒(表現)鳥=鶏の上位概念[全体]
                  : (内実)鶏肉=鶏の下位概念[部分]
日本のアインシュタインだ。 ⇒(表現)アインシュタイン=一人の人物[部分]
                  : (内実)天才を持った人物=天才[全体]
ゆえに、上位(全体)⊃下位(部分)
     上位(全体)⇔下位(部分) という 「⊃⇔提示」の関係になります。

ちなみに・・・『羅生門』「起」冒頭でも、「この男のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)が~」という表現があり、傍線部は被りモノ自体ではなくて、被った女や男を表す「換喩」ということになります。

NP解析では、「結」で駈け去った下人は当然「芥川自身」、着物を剥ぎ取られ倒れていた老婆は「もう一人の芥川」、「内包対比」的な隠喩、ということになります・・・ご意見ご批判をお待ちしています。


レヴィ・ストロースの「構造主義」を、「近代合理主義ひいては実存主義を否定して、物事は主体的・意図的にではなく、無意識的・自然的に意味と形を成すという捉え方」と自己解釈しています。

これで、漱石の『こころ』も100年の時を越えて無手勝(むてかつ)流に読解しているので、押し付けられる方(素直な生徒たち)も迷惑なことでしょう。

しかし、カントの「自由」も、「自己の義務の命令に従って、主体的・自律的に生きること」とすれば・・・なるほど「近代人」の抱えた「自由」は実は「束縛」であり、「自由であらねばならない」という「おそろしい義務」であった・・・という「逆説」が(前回既に述べた通り)生じることは、納得できるように思えます。

さらに、ソシュールの「言葉」は、「偶然的かつ恣意性が強く、イメージ・音声映像として概念化を強いるもの」と解釈すれば・・・つまりは西欧近代の言葉(の和製翻訳語)が次々と氾濫(はんらん)する明治時代前半は、個人主義的な「自由」と、その義務感による「束縛」との交錯に満ちていた・・・という「二律背反」も然りです。

こうした三本立ての底辺に構造主義を捏造(ねつぞう)意識して、『こころ』読解を続けていた折しも・・・(K の「自己喪失」は「自由の束縛義務」と「言葉の概念強制」に由(よ)るもの、という「構造主義」的解釈)・・・

現役の文化人類学者のかたから、ブログ・コメントをいただきました。しかも、NPのふた昔前の(20年以上の風雪を経て、遥かに「藍より青く」なられた) 元・教え子のかたです。

ご本人のお許しを得た後に、この本編でご紹介できればと思っています。

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