NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2013年03月

先日、学生時代に通っていた懐かしいお店で待ち合わせて、一献傾けました。
高知市の有名な中学進学塾の塾長さんです。
子どもたちが目指す土佐中学、中高一貫でご自身も出身の土佐高校、その甲子園応援を兼ねての来阪でした。


お店の方は、マスターも奥さまも変わらず元気元気。
震災の影響もあり、私たちがそれぞれ住んでいたアパートはもう後かたもありませんが、お店の様子はあの頃のまま。
西宮今津は学生としての古里です。

彼は、一年前に「天から降りてきた」着想の小説を書いているはずです。
一年前に同じ店で、そう聞いたのです。
「天から下ろされた」なのかも知れません。
今回も・・・書かんわけにはいかんぜよ・・・と言っていました。
坂本龍馬が好きなのでしょう、御多分に漏れず。

NPも、プロローグのみアップしたままの『二季物語』を遂行してゆこう、と勇気付けられたことです。

土佐高校善戦でした、高知高校は勝ちましたね。
御縁というのは「まっこと不思議なもの」です、高知には8年間居ました。
今も、いろんなところで、その御縁を感じながら・・・暮らせし一日を忘れじと思ふ・・・のです。

何事も
  思ふことなく

   いそがしく

     暮らせし一日(ひとひ)を
       忘れじと思ふ
        (石川啄木・いしかわたくぼく=歌人)

あるきなむ 大道を
        (柳宗悦・やなぎむねよし=思想家) 

この二つの書に目を奪われました。難波の高島屋7Fまで足を運んでのことです。
特設売店の篆刻(てんこく)印で自分の名一文字をゲット。明日の授業と明後日の終業式の日に、提出のある生徒のノートに押印して、どちらかの
フレーズを書き添えてみます。

かな文字の書が達意のかただったようで、1行、2行、3行の文字の置き方、絶妙のバランス感覚を褒める解説添書が多かったですね。

すぎおかかそん、奈良出身・在住、昨年九十九歳の天寿を全うされたとのこと・・・招待券を下さった大和在住の知人に感謝・・・

浮世を離れた「書」に心を洗われました。分からないなりに何事かを思いながら、忙しく過ごしている日常とはまったく異質の時を持てました。

忘れじと 
  思ひながらも 
    歩きなむ 
      五年の日々経て 
         一年の夢

新学年の、とりわけ受験生となる皆さんへ・・・「大道」をまっすぐに貫かれますように。

 

唐突に想い出話をひとつ。


共通の友人の下宿に彼も住んでいました。その後宿がえをして、一人で住むようになりましたね。
有川浩さん『阪急電車』の舞台のひとつひとつが思い浮かびます。
映画でもきれいに車窓に流れていた(はずの・・・ごめんなさい見ていません・・・)「小林(おばやし)」や「門戸厄神(もんどやくじん)」です。

そうした宿の彼の部屋で、通念上は禁止されているはずの徹夜麻雀を何度もやりましたね。
学生の時も、院生になってもです。
彼は冷静で強かったし、あまり勝負に拘(こだわ)っていなかったように記憶しています。

ある時、座っていた彼の席の身近なところに、小銭(1円玉たくさん、5円玉も10円玉もあったかも知れません)が散らばっていたんですね。
それを片手でサアッーときれいにかき集めて、出口くんは、すぐそばにあったゴミ箱に、何の惜しげもなくパラパラッーと投じたんですよ。

その様が、行為の是非とはまったく無関係に、とても鮮やかで美しかったんですね。
周りの連中も、オヤッと少しだけ目を向けましたが・・・すぐに何事もなかったかのように、遊興は続いてゆきました。


出口さんは、『水月』(みづき)という小説を2006年に刊行しました。
それには大学や学生時代のことも描かれています。
妖しい雰囲気のある不思議な世界です。
続編を楽しみにしています。


ずっと以前に記した「17歳でした。」のコメント欄に投稿をいただきました。

大学受験の年になりますね。

「曇りのち晴れ」を祈っています。

願わくは一年後の快晴を。

今は曇りでもよいのです。


17歳・・・先日来述べている中原中也(陸軍軍医の父の家に生まれました。)が山口から立命館中学に転学後、本格的に詩を書き始めた年齢ですね。


では・・・「曇天②(背景にあるもの)」

肉親の死

1921年(大正10年)に、
     養祖父・政熊(66歳)
     中也14歳
1928年(昭和3年)に、
     父・謙助(52歳)
     中也21歳
1931年(昭和6年)に、
     三弟・恰三(19歳)
     中也24歳
1932年(昭和7年)に、
     祖母・スヱ(74歳)
     中也25歳
1935年(昭和10年)に、
     養祖母・コマ(72歳)
     中也27歳
1936年(昭和11年)に、
     長男・文也(2歳)
     中也29歳
     
上記以外に・・・
親友(最後は拒絶されました。)の詩人で画家・富永太郎の病死
文学者・牧野信一(中也との接点に坂口安吾がいます。)の縊死(いし)
【=2013年センター本試験・小説『地球儀』の作家です。】
芥川龍之介の服薬死
小林多喜二の拷問死

詩集『在りし日の歌』(この中の「永訣の秋」の部に「曇天」)の背景にあるものは・・・
すべての、あらゆる死だったと思われます。

「曇天」とは中原中也の心。
そこに翻る「黒い旗」はさまざまな「死」であったことは言うまでもありません。
そしてマクロには・・・「曇天」は日本の近未来をも暗示していたに違いありません。
思えば、牧野信一の「地球儀」もそうだったのです、きっと。


      

  曇天           中原中也 『在りし日の歌』 より


 
  ある朝 僕は 空の 中に、
 
 黒い 旗が はためくを 見た。
 
  はたはた それは はためいて ゐたが、
 
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 

 
  手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
                      
 綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 
  旗は はたはた はためく ばかり、
       
 空の 奥処(をくが)に 舞ひ入る 如く。
 

         
  かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
               
 屡々(しばしな) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 
  かの時は そを 野原の 上に、
               
 今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。
 

 
  かの時 この時 時は 隔つれ、
  
 此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 
  はたはた はたはた み空に ひとり、
        
 いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。


NP解釈・現代語訳①
 
 ずっとずっと叶わぬ届かぬ思いを抱え続けているのだ。
 
 その思いが向かう先 高い果てには忌わしい死がある。
 
 それでも自分に引き寄せてみようとするが 遠く消える。
 

 いままでもこんな日々が 広野や街中至る所にあった。
 
 時も場所も変わったが いまだいまだ思いは尽きない。

 曇り多く翻るわが心には最早孤独も喪失も畏怖もない。


韻文詩を散文詩にしてみましたが、如何でしょうか。
橋本武先生の偉業『源氏物語・現代語訳』をふと思い浮かべます。
本文中の和歌を、主意そのままに残して短歌に口語訳することの意図が少しだけ分かるような気がしました。


 






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