NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2013年06月

見坊豪紀(けんぼうひでとし)は、「三省堂国語辞典」の主幹でした。以前から参照紹介している「三省堂新明解国語辞典」の主幹である山田忠雄と並んで、著名な国語学者のかたです。ともに東京帝国大学・国文科出身、見坊さんは1992年に、山田さんは1996年に他界されています。

見坊さんの『〈’60年代〉ことばのくずかご』という、ちょうど30年前初版(筑摩書房)の本を繙(ひもと)いてみました。・・・およそ半世紀前のコトバの中で、先述の「曖昧語」はどうであったかを知りたかったのです。

五つのうち二つ(標題がその索引例)が既にありましたね・・・それも今よりずっと新鮮でインパクトが強かったものと思われます。

「若い女のことばづかい」として、二女の父親の「一番悩んでいるのは、短大在学中の長女が何かにつけてその言葉を連発することで、耳ざわりでなりません」という読売新聞「人生案内」の記事を挙げています。
思わず早朝から笑ってしまいました。
「お悩み相談(?)」に載るぐらいに氾濫(はんらん)していたとは・・・。

時を経て、しっかり生き残っていますね、もう悩まなくてもいいレベルに着実にランクアップしています。

対義は「感じいい」「いいみたい」でしょうか。
「いい」も曖昧ですね。

「どうでもいい」かな?

いつの間にかよく使っています。
身近な人に窘(たしな)められました。
何を教えているんですか、正しい日本語を用いて下さい、と。

やばい・・・これだけは口にしないようにしています。

五つの言葉の共通点は、「明確ではないことが明確」です。
思考/判断 の 停止/保留。

やばいも「最低から最高まで」幅広く曖昧語の一種。

古語の「やうなり」(~のようだ)は助動詞で、その語句そのものに実体はありません。
同じく「いみじ」(①すばらしい②ひどい③たいそうだ)も形容詞ですが、「ひどいからすごいまで」カバーして、程度を強める「いみじう」というウ音便連用形が副詞化(たいそう~)しています。

はっきりさせないにしても、させるにしても、使い勝手のよい言葉があったんですね、あるんです今も。

昨日、オラフというスヌーピー系のキャラがデザインされた、からし色っぽいTシャツを来て外出したところ、いい感じですねと何人かの見知らぬ人に声をかけられ、嬉しいけれどそれは違うぞみたいな微妙な気がしました。

やばいですね・・・あくまでも使用例文でしたが実話です。

自戒します、次回から・・・この磁界から逃れないと自壊しますからね・・・うわあ・・・。

東野圭吾さんが昭和60年に江戸川乱歩賞を受賞した『放課後』、その初版本を持っています。
講談社の単行本で定価1000円、黄色い帯には "「こわいぞ。読んでごらん」遠藤周作氏絶賛!" とあります。
"27歳・大型新人による緊迫感あふれる本格学園ミステリー"  とも。

購入したのは、当時住んでいた大阪府茨木市の商店街でやや大きめの書店、よく覚えています。
森雅裕さんの『モーツァルトは子守唄を歌わない』という、これも乱歩賞同時受賞作も買ったのですが、今の書棚には見当たりません。

本も縁だなと思います。
あれから28年です。

『魔球』『秘密』『容疑者Xの献身』・・・ミステリーでも泣けるものだと強く感じましたね。
いずれも高校生が登場します、そう言えば。
「加賀恭一郎シリーズ」には「大学生」を感じました。

「ガリレオシリーズ」は大阪府立大・工学部出身の東野さんらしい理系トリックが多く、出た当初からあえて文系の女子生徒に薦めていました。月9ドラマの最終話は『聖女の救済』、途中でウトウトして家人に叱られました。
やはり本がいい、いつでも程よい距離を保てる。

リケジョ(理系女子)が多くなったそうです、昨夜遅くのニュース番組でドボジョ(土木系女子)という言葉も耳にしました。
こうした時代の要請も、どこかで東野さんに繋がっているのかも知れません。

まだまだ雨は降り続きそうですが、映画『真夏の方程式』は週末封切りです。
しかし・・・5月下旬に出たばかりの文庫本に「解説」が付いていないのには、驚き落胆しました。
単行本・新書本と文庫本との決定的な差異は、微細な編集や加筆訂正に加えて・・・
その「巻末解説」を、「誰がどう書いたか」であったはずです。だから思わず文庫本も買ってしまう。

手元に『どちらかが彼女を殺した』の新書本と文庫本があります。
後者には巻末「袋綴(と)じ解説」が付いていて、その中身は、本編(新書本)では明かされなかった犯人(真相)究明への大いなるヒントとなっているのです。

抱き合わせ商法と言ってしまえば味気無いので・・・湯川准教授風に「実に面白い」。

では・・・「真夏の方程式」の「無解説」の意味は?
なぜ・・・「あらたなトリックかも」・・・考えています。
はて・・・「映画に答えが隠れている」・・・思わず見に行きます。
そう・・・「縁を感じるかどうか」ですからね。

(前回から続いています。)
これを理解(解明ではありません)するには、アインシュタインの「時計のパラドックス」や特殊相対性理論(1905年)・一般相対性理論(1915‐16年)、さらに慣性系・運動系・加速系といった説明語を学ばねばなりません。

「双子のパラドックス」自体はポール・ランジュバンが1911年に出した、「光速に近い速度」の「宇宙船に乗る兄と地球に残る弟」で「加齢の逆転」が「双方に起こる」というものです。「Uターンして戻ってくるのだから解決できる」とする説もあります。

これはNP一年前もそうでしたが、いまだに理解できていません・・・。
遥かな宇宙旅行のようなものですね。

逆説だけではなく言葉の旅を、これからも宇宙を感じながら続けていきます。

(前回の続き・・・)「逆説」を述べた2012年5月3日・6日の当ブログ記事を再編集します。検索では他にも「逆説」という語句を用いた文章はかなりあります。今、「ふわっとした民意」という或る政治家の言葉に、しかしながら「絡みつくような思い」を感じて、急遽(きゅうきょ)展開しています。
 
A 「逆説(パラドックス)」は、次の「三位一体型対比構造」を持っている。
1  正しいようで正しくない
2  正しくないようで正しい
3  正しいか正しくないか決められない

B 有名なパラドックスは、例えば次の通り。
①ゼノンの四つのパラドックス・・・a 二分法 b アキレスと亀 c 飛矢静止 d 競技場 
②プラトンの「探求のパラドックス」
③ソクラテスの「無知の知」と「徳のパラドックス」
④砂山のパラドックス
⑤テセウスの船
⑥全能者のパラドックス

【NP解析】
①a 中間点の無限成立による移動不可能
  b 追いついた時には必ず僅(わず)かでも前方にいることの無限連鎖で追い越せない
  c 飛行中の定点における瞬間停止の無限成立による静止不動
  d 競技場の馬車同士が同時に逆方向に移動する時の観客席から見た運動認識不可能
   (移動ひとつ ≠ ふたつ)
②探求するためには対象が何であるかを知っていなければならず、知っているなら探求は成立しない。
③ソクラテスは最も知恵ある者とされたが、その知とは自分は何も知らないという自覚であった。徳は善の知識として教えるものだが、人の道である以上悪に辿(たど)り着くことがあり、徳は教えることができない。
④砂山から数粒ずつの砂を減らしていった時、砂山でありながら砂山ではなくなる(どこから砂山でなくなるか)。
⑤ギリシャ神話でテセウスが若者たちとクレタ島の旅から帰還して以後、一つずつ船の部品を新しく交換してゆき、最後に全ての部品を交換し終わってもテセウスの船と呼べるか否か。 
⑥全能者は自分が解けないような問題を作れるかという問いにおいて、作れるなら彼は解けないから全能者ではないし、作れないなら彼は全能者ではない。     

C パラドックスということを考察する(16字・句読点なし、以下同じ)

『この文は十六字で構成されている』この文自体は15字で構成されているので正しくない。
『この文は十六字で構成されていない』この文自体は16字で構成されているのでやっぱり正しくない。
さて、このジレンマをどう考えたらいいのだろうか?

ジレンマ内在対比⇒二律背反)・・・パラドックスは、それ自体が「対比」を利用していることになる。特に内在対比・重複対比(類比)
ゼノンの四つのパラドックスは、いずれも数学の微分積分法や無限極限という思考方法論と密接な関係がある。例えば或るジレンマ(アキレスは亀に追いつけない)を打ち破る計算式も、「ウィキペデア」には載っている。 

E 「自分という逆説」・・・自分は一瞬後には今の自分ではなくなり、8年後には完全に自分ではなくなるが、自分は自分であり続ける。・・・人の体は新陳代謝を組織細胞の末梢(まっしょう)単位で繰り返しているため、一瞬後にはもちろん「テセウスの船」のようになり、人体(の全ての部位)が完全に入れ変わるのに8年かかるという説をとれば、8年後には全く別人の自分が存在することになる。しかし、自分は自分なので、ではアイデンティティ(自己同一性)とは?ということ。

F さらにBの追補・・・逆説は背理逆理とも言う。
①「すべてのクレタ島人は嘘つきだ(クレタ島人はいつも嘘をつく)と、あるクレタ島人が言った。」
・・・エピメニデスの「嘘つきのパラドックス」として有名。
「この文は偽である。(この文は真ではない。)」も同様。しかし、「この文は真である。」は逆説ではない。
②「床屋は自分の髭(ひげ)を剃るべきか。」
・・・ラッセルの「集合のパラドックス」として有名? 人をある集合に含まれる人と、その集合に含まれない人とに
分ける場合に、どちらにも入る人はどちらにも入れない。(村人の男性すべては床屋に髭を剃ってもらう、では床屋の男性自身は村人に入るのか否か。→重複対比で解決できる。)
③「2つの干し草の完全な真ん中におかれたロバはどちらに行くべきか迷い餓死する。」
・・・ビュリタンの「ロバのパラドックス」として微笑。(あまり笑えない・・・ロバを一人の独身男性に、干し草を全く同じ双子の美人姉妹に置き換えてみる)。
④「この命題は証明不可能である、は正であり得るし、証明不可能であるからと言って偽ではない。」
・・・ゲーデルの「不完全性定理のパラドックス」として苦笑。(ひとつの公理系において、正しいとされるその枠内では、その中の正しくない偽を証明できない。→ということをゲーデルは証明した。)
⑤「双子の宇宙旅行のパラドックス」
・・・相対性理論に関するもの・・・(ここから、さらに次回に続きます。)
当時、まさに双子の父親である数学・物理の先生にお尋ねしていました。このお父さんは、NPの大切な「知人」の一人です、いつかまた一緒に仕事したいなあと今も思っています。

G あらたに、今回もまとめておきます。
・・・「逆説とは相対的であるべき前提・過程・結論の設定に絶対性を適用して生じた矛盾」・・・
ゆえに、逆説自体が絶対的では有り得ない。
しかし、相対的であることが絶対的でない限り、それは解明できない。
果たして「相対即絶対」や「絶対即相対」は成り立つか。
あたかも「色即是空」「空即是色」という「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の世界観のごとく、今また再認識します。


今日の空は、雨の色・・・7月早々に扱う予定のサギサワメグムの文章は、やはり「雨」がモチーフの一つです。
色即是雨、空即是雨・・・になるでしょうか。



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