NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2013年07月

ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデが『聖と俗』で宗教的なるものの本質として論じ、フランスの社会学者エミール・デュルケームが「聖俗二元論」で善悪ではない統一的なものと個人の日頃の関心事として敷衍(ふえん:押し広げて考えること)した、近代到来における思考対立軸のひとつ。

・・・と、まずNPは纏(まと)めてみました。
「ハレとケ(晴れと褻)」にも通じますね。

先日の続きなのですが・・・出雲と伊勢の双方に、「聖と俗」の極端な融合点あるいは臨界点とも言えるような、別種の「パワースポット」を感じたのです。強(し)いて言えば、聖地と俗界の出会いという権化(ごんげ:抽象性の具体化)でしょうか。

ミュトス(聖なる神話)にパトス(俗たる情念)が、ロゴス(聖なる言葉)にエートス(俗たる風習)が、凄(すさ)まじいまでに蠢(うごめ)いて各々の発露(はつろ)を求めている・・・ような感じ・・・です。
これら四つの要素は、聖・俗をそっくり入れ替えても成立してしまうような、それが「違和感」の正体かなと今は思っています。

専門家のSNさんに失笑・説諭されそうです。また御教示いただいて、誤謬(ごびゅう)を正したく思います。

・・・懲(こ)りずに・・・では、なぜそこに集うのか、参るのかということです。
全身全霊で聖俗の「重複対比」状態を味わう心地よさ・・・そんなに単純(複雑?)でもなさそうです。

『千と千尋の神隠し』も、果たしてそうであるのか。
「白龍(ハク)」の意味は「俗から立ち昇る聖なるもの」でよいのか。
ジブリの新作『風立ちぬ』に、何か新たなる解釈は立つのか。
堀辰雄の『聖家族』は、芥川龍之介が「生から死へと立ち昇ったこと」と関連はあるのか。
河童忌(芥川龍之介の命日)は7月24日、何も思わず過ぎてしまった日常、そこにも「聖と俗」はあるのか。

・・・自虐テロにも似たライトモティーフ的錯乱、「俗の骨頂」としてお赦(ゆる)し下さいね~。
そう言えば、久々に「らも検」、文脈なし読み仮名問題で大量にお送りします・・・近日公開。
公開・・・いくつもの映画に行きたい、その原作も読みたい、それについて語りたいと願っています。

今日も読んでいただいて有り難うございます。

(松江の志桜塾・長谷剛先生のブログ末尾文、NPも使わせていただきました。9月3日、長谷先生とお会いできるのを心から楽しみにしております。本文中のSNさんにも是非来ていただこうと企てております。・・・飛び入り参加ご希望のかた、御一報下さいませ、お二人のお許しが要りますので・・・。)

たいしょ・・・二十四節気の第12番目、次は立秋です。

昨日は「土用の丑」(どよう・うし)でした。
五行説(木火土金水)をそれぞれ四季に当てはめ、春・夏・(土)・秋・冬で余ってしまった「土」を各季節の最後の18日間に割り当てました。夏の場合は立秋前の18日間が「土用」となります。季節の変わり目、まさに節目ということで、暑さで傷(いた)んだ体を労(いたわ)るのは理に適(かな)っています。
今年はその間に丑の日が2回あるので、「二の丑」が8月3日。

鰻(ウナギ)を食べて暑気払い・・・奈良時代には万葉集で大伴家持が、江戸時代には丑の日にウのつく食をと鰻屋が・・・というお話が今年もTVで紹介されていました。
我が家では、白焼きを山葵(わさび)とポン酢でいただきましたが、2回目はどうしようかな。
季節を大事にするという口実で、こうした食の風習にも必ず素直に参加します。

さて、今日から「暑中見舞い」を立秋前日まで出せるわけです。
8月7日「立秋」で「残暑見舞い」になって、8月23日「処暑」の前日で「暑さのお見舞いはお仕舞い」です。

早いですね・・・ちょうど一か月後までの暦の上での暑さが、「蒼(あお)い夏」が駆け抜けてゆきます。

受験生の皆さん、「制夏者制受験=夏を制する者は受験を制す」ですよ。
受験生以外の皆さん、毎日アツく生きることは「日々受験」「一生受験」かも知れません、同じですね。

再度「アツいメッセージ」です。
~ 暑い熱い厚い篤い夏を乗り切って頑張りましょう♪♪♪♪ ~

土曜日に問い合わせの電話を入れるも、平日の9時17時(くじごじ)にお願いします(当然、これは当方が身勝手) と言われ、ようやく月曜日に警察署会計課と電話が繋がりました。

担当の女性のかたは、とても丁寧に応答して下さいました。
1 あの犬はこちらに移された当日に飼い主が現れて引き取られました。
2 連絡先(つまり拾得届けを出した当方)の電話番号はありましたが「連絡必要」との扱いではなかったのでそのままになったのでしょう。
3 物品は3か月で処分(もしくは拾得者のもの)になりますがペットは違います。
4 生き物は遺失者が名乗り出ない場合期限2週間です。
5 2週間経過後に不明のままの場合は愛好家がいれば引き渡されます。
6 引き取り手がいなければ保健所に送られ処分されます。
7 正式な連絡書状についてもそう(2に同じ)だったのでしょう。
8 心配していただいてありがとうございました。

NPとしては・・・
A 飼い主が見つかれば連絡がくると単に思い込んでいただけである。  
B 三か月経ったら処分されると思い込んでいたが実際は2週間である。
C 意思表示及び質疑応答は明確にしておかないと錯覚・勘違いが生じる。

殊(こと)にCは、この上無い教訓になりました・・・教えていただいてありがとうございました。

パピーは今日も何処(どこ)かで無事に散歩を続けているに違いない。
迷い犬のその後を心配してくれていた皆さんもまた・・・。

出雲・伊勢、共に遷宮の年に両参りを果たしました。

出雲では蕎麦(そば)を、伊勢では饂飩(うどん)をしっかり食しながら、杜(もり:神社神域の木立)の中を闊歩(かっぽ)しました。

どちらも暑い日でした。出雲は幼い入道雲が綺麗な、伊勢は抜けるような蒼穹(そうきゅう)の、熱い陽射しの時間と場所がそこにありました。

【ミュトスmythos:ギリシャ語・・・語り伝えられるもの、神話。自然・神々・英雄などについて民間に伝わる物語・伝説・伝承。】

これをロゴスと対比的に捉えるというのが前出SNさんの「言葉」です。

【ロゴスlogos:ギリシャ語・・・語るもの、言葉・理性・万物支配の理法。言葉を通じて表わされる言語・思想・説教。 キリスト教で神の言葉を人格化する神の子としてのイエス・キリスト。】

NPは以前、ロゴスが理性なら、感情を表すパトスがその対だと思い込んでいました。しかし・・・

【パトスpathos:ギリシャ語・・・特にアリストテレス倫理学で、喜怒哀楽・欲情・恐怖・憎悪などの快楽や苦痛。一時的な感情状態で情念。】

この対はエートスのようです。

【エートスthos:ギリシャ語・・・これもアリストテレス倫理学で、人間が反復行為で獲得する持続的な性格・習性。 社会集団・民族を支配する倫理性。】

A⇔B⇔C⇔Dが成り立つと考えます。

NP素人ゆえの浅学固陋(ころう:古い考えに固執して頑迷なこと)によるものです。

冒頭に戻ります。
極めて古代日本的な時場に、ABCDの坩堝(るつぼ)を感じてしまいました。
神々について語られた昔昔の神話の時空に、それを揺るがすがごとき人々が語る今今の言葉が渦(うず)巻いているのです。簡単に言うと、遙かなる大いなる違和感です。・・・老若男女、あらゆる出で立ち、立ち居振る舞い、言語、あるいは頭の中までは分かりませんが思想、異なり違(たが)う人々が群れ集っているのです、真摯(しんし)な姿で敬虔(けいけん)にお参りを捧(ささ)げているのです。僅かながら傍若無人に振る舞っている人もいます。
我々自身も含めて・・・いったい何を求めて・・・この時この場へ・・・と目が眩(くら)むようでした。

鳥居、参道、石の階(きざはし)、お社(やしろ)、お宮・・・杜と川・・・

非現実・非日常と現実・日常が「ねじれ」て交錯している・・・そんな二律背反の実感を、凄まじいまでの蝉時雨の中に感じたことです・・・。

非見識で空疎な文章になってしまいました。

「ねじれ」の解消が問われた参議院議員選挙投開票の日・・・解消できても、それは目に見える「数字」上のものですね。
形而上の世界の「捻(ねじ)れ」には、字形に「念」が入っていますから・・・
上記傍線部の違和感を、同じく傍線部の交錯の中に、合わせて思考してみます。

神話は、新話に向かったのでしょうか?
敢えて、遡(さかのぼ)って更新しました。

昨日の記載に関して、御本人から望外のコメントをいただきとても喜んでいます。

その中でこう教えていただきました。
罰が当たる・・・「バチ」は仏教用語として用いられる「罰」の呉音で、人間の悪事・驕りへの神仏の懲らしめという意味だと辞典にありました。バチが当たらないように「善く生きる」ことを心がけなければなりませんが・・・


こうお返しいたしました。
罪は積み、罰は×、咎(=科)は罪と罰が明らかなこと(咎められるべき罪、科されるべき罰)と、言霊にもかこつけて思い込んでいます。・・・釈迦に説法で失礼ですが・・・

ソクラテスと釈迦、ともにSですね・・・たくさん学ばせていただきます。

「天空海闊(てんくうかいかつ)」という四字熟語を思い出します。
高く広く深く、そして大らかに自在であること・・・とNPは解釈しています。学びの本質もそこにあるように。

日々を生きることは煩悩の思い込みに身を委ねること・・・罪が積まれ罰が当たり咎(とが)が科されてゆきます。
せめて「善く生きる」ことを心がけたい、叶わぬ願いと知ってはいますが、天空海闊への旅は楽しいものです。

一切感謝、有り難うございます。

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