NPブログ - Leitmotiv ~言葉・論理・主題連鎖への旅~

2013年12月

A カタカナ語・・・簡潔に意味の和語換言を。
①プロテスタンティズム
②アンビバレント
③ビブリオ
④コンテクスト
⑤カテゴリー

B読み仮名(すべて四字で)
⑥陥穽
⑦晦日
⑧編纂
⑨黄昏
⑩酣

C書き取り(傍線部)
⑪チームのかんじんかなめ
⑫計画のりていひょう
⑬天皇ほうぎょ
しいてきな考え
きょうがくの結果
⑯文理せっちゅうのジャンル
⑰歌をくちずさむ 
だんかいの世代
みかんの鮮やかな色
いちようらいふくとは悪いことが終わりよいことが始まること。

紅白歌合戦が終わろうとしています。
途中からしか見られませんでしたが、やはり福山雅治がよかったなあ。

さよなら2013 らも検、解答は2014新春早々に。
あ、白が勝ちましたね。
よいお年を。 

DCIM0034

生駒山の山頂です、4F我が家のベランダから。
阪奈道路を越えて奈良。

大晦日の朝です。(画像は一昨日の晴れた午前)

一限目から授業です。
今日は、とっておきの 25年度センター追試験・小説(福永武彦) をやります。

まだ目を通していません。
出題されたのは知っていましたが、この日まで待ちました。

本試験に出てほしかった。
そうすれば、もっともっと注目されたのに。

NPは全集こそ いつしか手放してしまいましたが、福永の貴重な初版単行本や もう絶版になった文庫本などを50冊近く、ライティングデスクに備え付けのガラス戸本棚に置いています。
今も目の前、上の方に・・・特別待遇なのです。

そこには、全三巻の「透谷全集」(当ブログ既出、先輩の遺品)や『春の雪』(三島由紀夫)『楡家の人びと』(北杜夫)、それに「井伏鱒二自選全集・第一巻」(同・既出「山椒魚」含む)、『氷点』『続氷点』(三浦綾子)、『死と愛』『夜と霧』『時代精神の病理学』(フランクル)なども入っています。
フランクルの横に、故 水谷昭夫先生(同・既出)の『死と愛の季節』や『近代日本文芸史の構成』があります。
中公文庫の「日本の詩歌」全31冊や海外詩人の詩集文庫本数冊、三島の文庫本十数冊・・・。

神戸YMCAチャペルでおゆるしいただいた、小池文雄牧師サインの「結婚証書」とともに、「新約聖書」も。

福永は敬虔なクリスチャンでした。
(軽薄にそう言ってもいいのかな・・・自戒。)

再引越以来、一棚分まだ空いたままです、何を入れようかな。

2013年らも検・最終回を、日時が来年になる前にアップする予定です。
是非、最新の語彙力を試して、今年を締めくくって下さいね。

一年間、お元気さまでした、まだまだ頑張りましょう。







傍線部とあるが、どういうことか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・という「意味設問」(ことか問題)
傍線部とあるが、なぜそういえるのか?・・・・・・・・・・・・・という「理由設問」(なぜか問題)
③波線部もしくは全体について、どう書いてあるのか?・・・という「狭間設問」(どうか問題)

ここで、「なぜか問題」は「どうしてそういうものになったのか?」と言い換えて考察出来ます。
さらに、「どうか問題」は「書かれたこともの化すると どうなるか?」というニュアンスなのです。

やはり、以下のことが言えます。

Ⅰ 「ことともの」によって、入試型国語は成り立っている。

Ⅱ 「こと」(意味)と「もの」(理由)の狭間(はざま)に傍線部の持つ「本質」(エッセンス)がある。

Ⅲ 問題化・設問化には「恣意性」を越えた強い「必然性」がある


③は、「表現・構成・叙述」について、主に最終の問6で解答要求するものです。
近年では、評論が四択1選を2つ、小説が六択2選。
ゆえに、こう言えます。

Ⅳ 「表現・構成・叙述」には、その文章が問題化された最終的「根拠」がある。



(続きます。)

連日センター試験の過去問題や模擬問題を解いて、本試験に備えている人は多いと思われます。
頑張れ頑張れ、必死必生=必至必勝です。

センター受験生のみならず読んで考えていただきたいのですが・・・
国語では、漢字語彙力・単語力・文法力・句形力以外に問われるのは・・・

突き詰めてゆけば2種類しかない・・・それはよく指摘されることでした。

傍線部とあるが、どういうことか? ・・・という「意味設問」(ことか問題)
傍線部とあるが、なぜそういえるのか?・・・という「理由設問」(なぜか問題)

ここで、「なぜか問題」は「どうしてそういうものになったのか?」と言い換えて考察出来ます。

先日来の「こともの」が繰り返し出題されることによって、センター試験というものは成り立っているのです。

NPは、「こと」(意味)と「もの」(理由)の狭間(はざま)に傍線部の持つ「本質」(エッセンス)がある・・・
と日頃の授業でお伝えしています。

全ての傍線部に、意味と理由は生じるのですが、そのどちらかが問題化されるのです。
そして、その問題化には「恣意性」を越えた強い「必然性」があると考えています。

藤井貞和先生の説では・・・
「ものは不変不動性が強く、ことは時間軸の上を移動してゆく」(日本語と時間・序章)とあります。

引き続き、この「ことともの」を取り扱ってゆきます。


と同時に、上記①でも②でもない・・・

③波線部もしくは全体についての「表現・構成・叙述設問」(どう書いてあるか⇒どうか問題)
に注目したいですね。

この③に、その文章が問題化された根拠となる重要な「本質」がある・・・そう思えてならないのです。

(続きます。)



構造主義言語学の創始者であるスイスのソシュール(Ferdinand de Saussure 1857-1913)は、言語(language ランガージュ)を ‘ラング(langue)'と ‘パロール(parole)'として二元的に分けました。

ラング……一定の言語体系の中で生きる構成員たちが共有する、文法規則などの抽象的な総体。
パロール…個人的で場面的な実際の発話行為であり、言いよどみ言い誤りも含む具体的な実体。

さらに・・・
フランスの哲学者・批評家 ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915- 1980)は、エクリチュール(écriture)という概念を提出しました。

以下は、内田樹さん神戸女学院大学退官の最終講義にまつわる説明で、「内田樹の研究室」から援用させていただきます。(途中「具体例の省略」があります、悪しからず。)

バルトは人間の言語活動を三つの層にわけて考察した。

第一の層がラング(langue)
これは国語あるいは母語のことである。
私たちはある言語集団の中に生まれおち、そこで言語というものを学ぶ。ここに選択の余地はない。私は日本に生まれたので、日本語話者として言語活動を開始する。

第二の層が「スティル」(style)。
これは言語運用における「パーソナルな偏り」のことである。
文の長さ、リズム、音韻、文字の画像的印象、改行、頁の余白、漢字の使い方などなど、言語活動が身体を媒介とするものである以上、そこには生理的・心理的な個人的偏差が生じることは避けがたい。
ある音韻や忌避し、ある文字を選好し、あるリズムを心地よく感じる・・・といった反応はほとんど生得的なものであり、決断によってこれを操作することはできない。

第三の層として「エクリチュール」というものが存在する。
これは「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。


ここからNPです。
ソシュールの「パロール」を、バルトの「スティル」として考えると、対比は「重複対比」から「トリレンマ(三位一体型)対比」になりそうです(当ブログ参照)。

エクリチュールは、構築主義や(社会)機能主義(これも当ブログ参照)によるものと思われます。

さて、今朝は・・・「言語」というものを語りたかったのです。

手元には、石原千秋さんの『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)があります。
その終盤に、ラングとパロールの説明があります。
石原さんは、太字ゴシックでこう記しています。
ラングとは決して姿を現さない抽象的な言語であって、パロールはその具体的な現れである。

再びNPです。

言語は、その三体を以て、どういうことを語ろうとしているのでしょうか。
ものとことの相違」も、そこにこそ立ち現れるのでしょうか。

(続きます。)

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