NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2014年08月

手紙を書いてみようと思っています。
今日の夜に。

長い長い 手紙を母に 書いている 八月三十一日の夜
(俵万智『サラダ記念日』-橋本高校 1987年)

・・・歌人の俵さんが神奈川県立 橋本高校の国語教師だった時期の一首です。


子ども(小学生)時代は長い長い夏休み最後の日でした、8月31日。
「夏休みの友」(学習テキスト)
「絵日記」
「図画」
「工作」
「研究」
「標本」
などなど・・・、
全部揃えて、明朝登校する準備もして、心のどかにゆっくり過ごす・・・なんてことは出来た試しがなくて・・・、
お約束の悪戦苦闘(with 怒りの親)・・・未明まで・・・、
だったように記憶しています。

休み期間中には・・・、
「ラジオ体操」(早朝参加で出席カードに町内班長・最上級生の判子をもらい、皆勤だと何かいいことがある)
「社会奉仕の日」(暑い中で町内の草むしりや資源ごみ回収などをして、ジュースとアイスクリームをもらう)
「海水浴」(親戚が三~四家族集まって日帰りで海へ行き、浜茶屋に一画を取って海と浜辺を漂う)
「プール学校」(学年指定日以外は任意自由で、帰りにラムネを買い飲みする)
「町内会」(何かしらの夏行事に子どもも行って、ビニール袋に詰め込んだお菓子をもらう)
「登校日」(宿題進行状況の経過申告もあったかも知れないが、何のために行っていたのか不明)
「夏祭り」(当時の(中。)居住地近くに大きなお寺があり、二日間の「大寄り」は沢山の夜店で大賑わい)
などなどあり・・・、
ここかしこで花火をしている夜もあり、朝顔やトマトを観察して食べて、星も今よりずっと綺麗に見えました。


ただ、子どもの(中。)は、ある夏には・・・、
結核の疑いを掛けられて自宅軟禁と通院注射検温が続いたり、
またある夏には・・・、
蓄膿(ちくのう)を直すためだとかで喉(のど)のアデノイド除去手術を受けたり、
で・・・宿題以外の上記全ての楽しみを取り上げられて・・・、
大いにふくれて(不貞腐れて)、泣いておりました。

それでも夏休みは格別のものでした。


どこへ消えたの!?
夏休み!!



吉田拓郎の「夏休み」です。 

作詞:吉田拓郎
作曲:吉田拓郎

麦わら帽子は もう消えた
たんぼの蛙は もう消えた
それでも待ってる 夏休み

姉さん先生 もういない
きれいな先生 もういない
それでも待ってる 夏休み

絵日記つけてた 夏休み
花火を買ってた 夏休み
指おり待ってた 夏休み

畑のとんぼは どこ行った
あの時逃がして あげたのに
ひとりで待ってた 夏休み

西瓜を食べてた 夏休み
水まきしたっけ 夏休み
ひまわり 夕立 せみの声


「二十四時間テレビ」も、この日だから、さらにいいですね。
武道館で生演奏出演のⅢ類・吹奏楽部、ありがとう、楽しみです♪♪

では、今日も佳き一日でありますように。
頑張りましょう!! 




 

大正3年です、1914年。
第一次世界大戦開戦・・・、

ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟
VS 
イギリス・フランス・ロシアの三国協調 

前者が後者に戦いを仕掛けたという図式ですね。
予想以上に長期化して、1918年(大正7年)まで続いてゆきます。

日露戦争(1904年・明治37年2月 から約1年7か月の間) で、超莫大な費用を使ってしまった日本は・・・、
(第一ラウンドだけで年間国家予算2億5千万円の6倍:「世界一おもしろい日本史の授業」による。) 
勝ったとは言えポーツマス講和条約で「賠償金は一切獲得できないなど、国民には不満が残った:同上」状況 。

そこへ・・・「大正新時代の天佑(てんゆう=天の助け:元老 井上馨かおる の言葉)」・・・、
対岸の火事」で「火事場泥棒」のように・・・、
(自虐史観ではありませんよ、比喩ですが実際的にそうなったのですから。)
「大戦景気」(大正4年~8年)に、日本は沸いてゆくのです。
①交戦中のヨーロッパに、軍需品・日用品が大量に売れた。
②独占したアジア市場に、綿糸・綿織物が大量に売れた。
③大戦の影響がなく好景気なアメリカに、生糸が大量に売れた。
(「世界一~」伊藤賢一さんによる「景気の要因」です。)


しかし・・・。
その反動も、一層凄まじく・・・大戦終結(1919年ベルサイユ条約)とともに、モノが売れなくなり・・・、

「戦後恐慌」(1920年・大正9年) に陥り、時代は不透明もしくは暗黒色に彩られてゆきます。

因(ちな)みに、大正時代を代表する作家 芥川龍之介は・・・、
蜜柑(みかん1919:龍之介27歳時) 
舞踏会(1920)
秋(1920)
南京の基督(なんきんのきりすと1920)
杜子春(とししゅん1920)
アグニの神(1920)
藪の中(やぶのなか1921) 
・・・といった名品を次々とモノにしてゆきます。
もっとも、「蜜柑」に描かれたエピソードは1916年の体験談ですから、時代は表向きには好景気の真っ只中なんですね・・・あの前半部までの「倦怠感」は不思議です。
「藪の中」はいかにも不透明で不明確な時代背景を想像して得心出来ますね。 

そして、その頃・・・次の大戦に向かって日本が、強(したた)かに明確に歩み出したのではないでしょうか。


 これが「戦いの後先」です。
後先(あとさき)とは「物事の前後」ということ。

憂慮すべきではないでしょうか。
100年前に学ぶとすれば・・・、
を、です。


肝心の標題に戻ります。

ちょうど百年前の1914年4月20日~8月11日に110回に亘(わた)って、朝日新聞に連載されたのが・・・、
東京朝日の契約社員*であった夏目漱石の「心 先生の遺書」という作品でした。
同年9月には岩波書店が同社初めての出版物として、漱石自身の自費出版・装丁(そうてい)という形ながらも、
『こゝろ』 として刊行しました。

考えてみれば・・・、
『こころ』も壮絶な愛と魂の「戦いの後先」だったことに変わりはありません。

「100年前」その時のいろんな人たちの「こころ」に思いを馳せながら、やはり「今」に考えを致したい。
そう思い考える、八月末の土曜日朝です。

読んでいただいて有り難うございます、佳き週末でありますように。


*明治40年に東京帝大を含めた一切の教職(の誘い)を振り切って職業作家として入社、「月給200円+賞与」の厚遇で、当時の社長が月給150円の時代。(1円≒現在の2万円)


 

忘れるという知恵を持つこの国の平和、それでも平和を愛す
(俵万智『チョコレート革命』-資本主義の街角 1997年)

・・・読点(とうてん)の入った現代短歌です。


現政権の首相と幹事長が、次期内閣について対談をしたとのこと。
「この国の平和」について、一言でも話をしたのだろうか。
大切なことを忘れてはいないのだろうか。

「忘れる」の目的語は・・・、
戦争なのだろうか。
それとも国民、原爆、歴史・・・。

だとすれば「持つ」の主語は、「平和」と言うよりも、順に・・・、
国民。
政治家、国家、現代人・・・。


では「平和を愛す」の主語は?

誰か、人々、日本人・・・、

もちろん私(たち)でありたいですね。

でも・・・・・・・・・、

「愛は勝つ」と歌う青年 愛と愛がたたかうときはどうなるのだろう
(俵万智・同上-チョコレート革命)


平和を愛する、母国を愛する、という「愛」同士が敵対して、戦って・・・、
戦争になるんですよね、おそらくは。

不気味な逆説だと思います。

平和を愛するがゆえの戦争」ですからね。

その愛は勝つのでしょうか。
勝つとすれば相手は負けるはず。
恋愛もそうでしょうか。

信じることさ  必ず最後に  愛は勝つ
(KAN「愛は勝つ」1990年)



そうか・・・。

愛と平和を信じられない自分がいて・・・、
自分を信じることで、
愛と平和を信じることができる。

それが「愛は勝つ」の意味であってほしい。
「たたかう」相手も、自分でありたい。
綺麗事?・・・でしょうか。


戦争と
 平和において
   愛は勝つ
    たたかう相手は
      いつでも自分   (中。) 











 

夏に日本一になるために、生意気ですけれども、どこの学校よりも練習してきたつもりです・・・。
(2014夏の甲子園高校野球、優勝監督の勝利インタビュー:8月25日) 

凄い・・・なかなか言えることではないですね・・・、
この言葉の前後には、相手校や選手そして自チーム選手への敬意がしっかりと述べられています。

「練習量」だけではなく、「質」もあるのだと感じます。
昨日、いくつか授業のあったクラスでは、そのことを語りました。
量も然(さ)ることながら、質=中味・内容・方法・手順・意識・戦略・・・を、大切にしてゆきましょう。

例えば、高三生や既卒生にはちょうど六か月後、中三の場合だと予定通りならちょうど三年半後・・・、
国公立大学二次試験の当日です。
「生意気だけど、どの受験生よりも勉強してきたつもり」になれるかどうか。
そんな容易(たやす)いことではありませんね。

それを自分自身に言い聞かせるだけではなく、周りの他人にもコウゲン出来るでしょうか。
公言・広言・高言・巧言・・・です、いずれも有効活力。

おめでとうございます。

・・・と心から讃え祝っていただくために・・・、

今のキミ、頑張れ頑張れ頑張れ。


さて、今日8月28日は七十二候では「天地始粛」(てんちはじめてしゅくす)の日です。
歳時記カレンダーによると、「天地の気が粛然として万物があらたまる頃」です。

朝の明け方も急に遅くなってきたのが分かりますね。暮れ方は逆に早く・・・。
11日後の9月8日は、「白露」(はくろ)「中秋の名月」(十五夜)にあたります。

今が、まさに「端境期」(はざかいき)なのです。
まだまだ暑い暑いながらも、「粛然」として「あらたまる」ための「挟間」(はざま)・・・、
この時機(チャンス)を逃さず、「練習」「勉強」(どちらも学習)の「質量」をアップしたいですね。
「見直し」に悠長な時間を掛け過ぎると、それだけで時は過ぎ去ります、勿体無い。

意識即実践。


ということで・・・、NPあらため「(中。)」(なかまる)は、あらためて日本史の勉強もすることにしました。

「世界一おもしろい日本史の授業」(伊藤賀一さん:中経の文庫)を読んでいます。
「世界一」の「日本史」とは何なのか、を体感してみたい。皮肉じゃなくて。

前日の「菅原道真の呪い」についても参考にしてみたのですが、この件に関する記述は意外と薄かったので、自分で調べてみた次第です。あくまでも客観的史実という点での「おもしろい」読み物だと考えています。

ああ、もしかすると・・・世界一おもしろくするのは、自分自身のとことんツッコミ調べによるのでしょうか。
「他に無い」ということも、ひょっとすると「世界一」かな。
「他のどれよりも」も、そうかも知れません。

それでもいいや、「世界一」は超凄い(≒超絶)ですからね、うん。


甲子園応援もあって・・・、
遅れてしまったのか、準備間に合わず早過ぎるのか、よく分からない「夏期テスト」があります。

全力夏の総仕上げ」のひとつ・・・、
いろんな皆さんにも他に沢山あるのでは・・・、

こちらも頑張れ頑張れ頑張れ、です。

今日も読んでいただいて有り難うございます。(中。)



 

漢詩・和歌☆に際立った才(ざえ)があり、漢文などの学問に頗(すこぶ)る秀でた忠臣ゆえ、右大臣にまで昇り詰めたとされる・・・、
菅原道真(すがわらのみちざね)・・・大宰府天満宮など各地の天神に祀(まつ)られる「学問の神様」・・・、
藤原時平の讒言(ざんげん:事実を曲げたり不実を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。)によって(一説ですよ・・・。)大宰府に左遷され失脚した、その怨み呪いと言われる・・・、
「一連の物語(事件)」を以下コンパクトに列挙します。

(予備知識:左大臣の方が右大臣よりも上位ですが、摂政関白や太政大臣を兼ねていない時、左大臣は有能な右大臣を疎む傾向にあったようです。) 

①延喜8年(908)
かつて面前で頬を打たれた遺恨を持ち、また左大臣藤原時平による右大臣・菅原道真左遷(901)を諌(いさ)めようと参内した宇多上皇を、醍醐天皇に取り次がず阻止したと言われる経歴の主・・・、
藤原菅根(ふじはらのすがね)⇒52歳で落雷に打たれて死亡。

②延喜9年(909)
道真を左遷にした張本人で、道真の怨霊が祈祷・調伏を止めるように迫り一気に病状悪化したと言われる・・・、
藤原時平⇒39歳で病死。

③延喜13年(913)
時平とともに道真左遷首謀者の一人とされ、道真の後任として右大臣になったが、12年後鷹の狩猟中に底なし沼に落ちて死体も上がらず・・・、
源光(みなもとのひかる)⇒67歳で事故死。

④延喜23年(923)
二歳で立太子(東宮となること)したが長くそのままで、母が時平の娘・藤原穏子だったためか、道真の怨霊の祟りと噂された急病によって・・・、
醍醐天皇の子・保明(やすあきら)親王⇒21歳で薨御(こうぎょ:皇太子=春宮=東宮のまま亡くなること)。

⑤延長3年(925)
父・保明親王の急逝によって代わりに2歳で祖父醍醐天皇の皇太孫となったが、祖母が穏子だったためか・・・、
慶頼王(よしよりおう / やすよりおう)⇒わずか5歳の時、病気で夭折(ようせつ:早死に)薨御。

⑥延長8年(930)6月26日
醍醐天皇のいる清涼殿で平安京旱魃(かんばつ)雨乞(あまごい)の協議を行っていた時、清涼殿の南西角の柱に落雷して・・・、
藤原清貫⇒道真の動向監視者とされる人物、63歳で衣服を焼かれ胸を裂かれて即死。
平希世(たいらのまれよ)⇒顔面に瀕死の火傷を負い、程なく死亡(年齢不明)。他にも官人に死傷者が出る。

⑦清涼殿落雷事件のショックにより病気がちとなり・・・、
醍醐天皇⇒同年9月29日に45歳で崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)。

⑧承平6年(936)
時平の長男であったため道真の怨霊に怯(おび)え、祟(たた)りを一生恐れたという説もあり、大臣(摂関)目前で・・・、
藤原保忠⇒47歳で病死。

⑨天慶6年(943)
時平の三男で管弦に長じた三十六歌仙の一人、愛する北の方に自分は短命と予言して・・・、
藤原敦忠*⇒38歳で病死。

 *小倉百人一首・43番
逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり[権中納言敦忠]

こうして・・・少なくとも九件ぐらいの「ある意味強引」な関連付けによって・・・、
約40年に及ぶ主に藤原北家(ほっけ) 衰退の歴史を辿(たど)る時・・・、
「歴史の勝者」「歴史の敗者」とは、いったい何であったのだろうかとの思いを禁じ得ないですね。
(しかし、40年あれば・・・普通にいろんな事故・災厄はありますから・・・それを全部祟りとは・・・。)

まあ、本来この手の奇譚(きたん:奇妙な話)は陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)を合わせて扱うべきようにも思えますが・・・、
安倍晴明は延喜21年(921)~寛弘2年(1005)で84歳を生き抜きましたから、時代は少しズレています。 


それにしても、なぜ急に菅原道真?と言うと・・・、

「雷」ですね、連日の全国荒天で、近畿にも大雨・洪水警報以外に雷・竜巻注意報が出ています。

「学問の神様」は「雷神」**でもあるのです。 


☆菅原道真(菅公)の和歌・・・いずれも、ほんとうに綺麗な言葉と色遣いです。
此の度は  幣(ぬさ)も取り敢へず  手向山(たむけやま)  紅葉の錦  神の随(まにま)に
(百人一首・24番 菅家:かんけ。)
海ならず  湛(たた)へる水の  底までも  清き心を  月ぞ照らさむ
(大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。)
東風(こち)吹かば  にほひおこせよ  梅の花  主なしとて  春を忘るな
(この一首によって梅は後に都から大宰府に飛んで降りたという、飛び梅伝説の元となった歌。初出の『拾遺和歌集』表記、後世に「春な忘れそ」とも。)


**雷神について
道真の領地であった桑原(大阪和泉説、京都府下説など有り)には落雷が極端に少ないことから、雷よけのまじないとして「クワバラ クワバラ」とつぶやくのが一般化・・・つぶやく人が少なくなったとは言え、現在も通じます。 




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