NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2014年10月

似而非(えせ=にてひ)なるもの、贋物を二か月ほど作ってきたのですが・・・、
こちらは本物カレーと本物煮物です。

やはり本物はいいですね。
見た目では然程(さほど)分からないのですが、
例えば・・・、
カレーには「大蒜」(にんにく)が、
煮物には「出汁」(だし)が入っているのです。


模試*は、ある意味で「贋物」(にせもの)です。
何の試験に模してあるのでしょうか。 
入学試験?定期試験?単なる試験?
模して何を為すのでしょうか。

模試対策・・・不思議な言葉です。
模試の模試?

もしかして・・・似而非物?贋作物?

・・・ということで・・・、
模試の過去問を解いて(文化祭明けの)模試に備える、という不可思議なことをせず・・・、
本物の入試を模試対策にする、という「逆説的」なことを連日やっています。

北大・東大・京大の入試国語問題を解いて説いています。
ええ、中3です。

本物には、
見た目では分からない「スパイスと隠し味」が入っているということ。
それを、とことん楽しみ味わいます。
「分かりません」「無理です」などと言いながらも・・・、
ノート提出してもらうと、
「分かります」。

どれほど彼ら彼女たちが「考えている」かということが。
ありがとう、考えてくれて。

大切なのは、「贋物で備えること」ではなくて「本物で考えること」です。

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*模試⇒模擬試験
・・・入学試験や資格試験をこれから受けようとする人を対象にして、実際の試験の形式や内容を予想して行なう試験。 

「世には二種類の人間がある。一方の種族の者は、いつもムダな死金を使ひ、時間を浪費し、無益に精力を消耗して、人生を虚妄の悔恨に終わってしまふ。彼等は『人生の浪費者』である。反対に他の者は、物質上にも精神上にも、巧みにそれの最高能率を利用して、人生を最も有意義に処世する。彼等は『人生の所得者』である。」

この文章は朔太郎が室生犀星を論じたものである(「所得人 室生犀星」、『廊下と書房』所収)。彼は同じく文士でありながらこの人物の中に自分に最も欠けている『処世の達人』を見出しているのだ。朔太郎はそのことの故に犀星に終生変わらぬ友情を捧げたのであった。 


・・・朔太郎の従兄の長男にあたる萩原隆氏が、著書『朔太郎の背中』で述べられています。

引用文も地の文も「達意」の文章ですね。

以前紹介した(当ブログ:今月10月13日)ことがありますが・・・、
高見順は、犀星の「朝湯」について「贅沢沙汰」と羨ましがっていました。

ひとつの出来事について、いろんな視点・観点がありながらも人はそれを主観的に(あるいは客観的であろうとして)集約し、人についても「歴史」を語り記し作ろうとします。
宇野邦一さんは『反歴史論』の中で「求心力」と表現しています。
・・・「歴史」の中で、自己存在は「強迫」と「自由」の矛盾の中にあり、自己像もまたその「歴史」解釈のひとつに他ならない・・・このような主旨と読解しました。
(現在、北大2005【二】評論を終えて、東大2008【一】評論と京大2008【二】評論的小説(中島敦)の並立読解・考察に入りました。)

朔太郎然り、犀星然り・・・そして私たち然り、ですね。


冒頭の本に戻りますが、
NPはそれを隆氏の近縁のかたから、御愛孫を通して直接いただきました。
和紙の能筆お手紙とともに。

お手紙の末尾です、余りにも嬉しゅうございましたので、無礼ながら掲載させていただきます。

「・・・お時間のおありの時にお読み下さいませ。これからも生徒達の為にもお元気でご活躍下さいませ。かしこ」

読ませていただきました。たいそう有り難く学ばせていただきました、心より感謝御礼申し上げます。

萩原朔太郎に関する当ブログ記事は、本日分を含めて4編あります。
それら印刷プリントとともに、お返事を差し上げたく存じております。








柿くへば
 鐘が鳴るなり
  法隆寺

正岡子規は1895(明治28)年10月29日(日清戦争が終わった年の秋)に、法隆寺近くの茶店でこの句を詠んだそうです。鐘の音は東大寺という説もあり、時間と場所を越えた悠久を感じさせてくれます。この時の奈良行の旅費を援助したのは親友・夏目漱石と言われています。

その2か月前に・・・、
子規の影響で俳句にも長じていた漱石が、

鐘つけば
 銀杏散るなり
  建長寺

・・・と、先に同趣旨の句を作っているのは興味深いですね。


子規の「収穫」(誉められるべき点)は、
「奈良に柿」という配合の妙味だったようです。当時は斬新だったのです。

奈良の宿
 御所柿くへば
  鹿が鳴く

同じ時の子規の思い出、翌年1896年発表の作です。
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で、なんと今日、その10月29日に・・・、
「大和」そのままのお名前を持つ知人から、
「法隆寺の柿」をいただきました。
とても美味しいです、有り難うございます。

ブランド名か品種かと思ってお訊きすると・・・、
ほんとうに法隆寺のすぐそばに住んでいる人からいただいた柿・・・とのこと。


【ミッシングリンク*】
(つながるということ)


ちょうど、上記文面を打っていた、まさにその時。
時間を越えて・・・、
場所を越えて・・・、

英国ロンドンから届いた10月29日のメール。

「大学入学から早3週間が経ちました。講義も本格的に始まったため、忙しくしています。・・・毎日充実した日々を過ごしています。これから4年間頑張っていきたいです。」

・・・中学OGのKKさんからです。
名門大学インペリアルでの新入学生活、サークルはアーチェリーに入ったそうです。

帰国する予定が決まりましたら、また連絡します・・・とのこと。

待ってるよ、キミの好きになった「物理」の話をしよう。


*ミッシング・リンク
・・・[missing link]〈失われた環ヮ〉ともいう。一般的には,ある完結する系において欠けている部分をいう。C.ダーウィンが,〈人間とサルとをつなぐ鎖の環となる化石が欠けている〉(《人類の起源》1871)と述べたことでよく知られている。[世界大百科事典]










 

御縁あって、萩原朔太郎の一族でいらっしゃる老貴婦人からいただいた一冊の本(2002年10月刊)・・・、

萩原隆 氏著で、医家の血脈についても余すところなく読むことができます。 

「ミッシングリンク」という章の中で・・・、

朔太郎が明治40年4月に伯父あてに送った葉書で「入試失敗の件」に触れているが、その詳細は朔太郎年譜の中にずっと抜けていた と。 
どこを受験したのか不明であった と。

朔太郎の従兄(いとこ)によって記され遺されていた克明な日記で、欠落していた明治40年分が、昭和56年夏の萩原隆 家 増改築の折に、「沢山のガラクタ」の中から出てきたと。

ここにミッシングリンクが完結した」、
明治四十年の事件は私が想像した通りであった」との表記です。


要は・・・、
朔太郎は明治39年に前橋中学を卒業し、同校補習科に入学するも4か月で退学、早稲田中学補習科に入り直して約一年間通学。
当時の朔太郎は非行癖もあった(らしい)ので、両親は心配していたのだが、伯父の勧めがあって、一時文学への耽溺*を絶ち、大阪高等医学校(現在の阪大医学部)を受験した・・・と。


このことは、朔太郎にとっては大きな転機であり、また挫折でもあったとNPにも想像できます。


「もし朔太郎が医者になっていたら」という章もあります・・・。

朔太郎と直接関係は無いのですが、面白いのでそのまま援用してみます。

不幸にして朔太郎(当時二十二歳)は医学校の受験に失敗した。・・・このところ医者の登龍門が狭き門となって久しい。医者という職業がそんなにうま味のあるものなのか? 進学高校では偏差値の高い生徒には先生が医学部受験を勧めるというからこれは異常事態である。医学など応用科学の一分野に過ぎず特に秀でた才能が要求される分野ではないのだ。一家一門のなかに医者が輩出することを名誉とする風潮がまだ一部に見られるけれども、こんなのは後進性社会の指標でしかないと私には思える。


「まだ一部に見られる」とありますが、この本が書かれてから12年が経ちます。
さらに「後進性」が進行した(=退行)と言うべきなのでしょうか。
しかし、医学部医学科という進路希望は、受験生本人の強い主体的選択である場合も多いですからね・・・、
一概には・・・。 


さて、朔太郎本人は・・・室生犀星を論じた文章を遺しています。
その一節を、標題の本の中に見つけたので、次回紹介して「続編」にしたいと考えます。
これも朔太郎にとってのミッシングリンクかも知れません。


あなたのミッシングリンクは何でしょうか。
何かが見つかり大事がつながりますように。


*耽溺(たんでき)
・・・不健全な遊びに夢中になり、それ以外の事を顧みないこと。「酒色**に―する」 
**酒色(しゅしょく)
・・・[男が身持をくずす基としての]酒と女。「―にふける」

相変わらず、「新明解」はホントに明解ですね。 

虎と鷹
 戦うを見て
  ニラもやし
   しいたけベーコン
    秋の焼きそば 

なめ茸と
 豆腐の味噌汁
  添えてみる
   文化祭では
    単品勝負

     (NP)

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