NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

2016年08月

ジークムント・フロイト『精神分析入門』*の第二部「夢」序盤記述から・・・。
(前出の河出書房「世界の大思想」による。)

「・・・夢は精神分析学的研究の対象になるのであります。夢もまた失策行為と同じく取るに足りないあふれた現象で、一見実際上の価値がないように思われます。夢は健康人にもあらわれるという点で、失策行為と共通しているからです。しかし、もし健康人にもあらわれるのであれば、それらの条件はむしろ失策行為よりはわれわれの研究にとって都合が悪いのであります。」

要は「夢には失策行為を軽視すべきではないこと以上に重要な意味がある」と言うのです。
(「失策行為」は下方wikipedia註では「錯誤行為」となっています。)

「失策行為」とは・・・、
①「言い違い」(「書き違い」「読み違い」という副次的な形式を含む。)
②「失念」(固有名詞・外来語・企図・印象によって細分化される。)
③「紛失」(「置き忘れ」「取り違い」、自発的な犠牲・反抗・自責とも。)
の三つにフロイトは分類しています。
(上記・第一部「失策行為」終盤記述から。)

これらを包括した意味と同等以上に、
「夢」にも、
分析理解できる意味や価値があるということです。

とりわけ「健康人」にとって・・・ですね。

失策行為も夢も、
村上春樹作品(今は『風の歌を聴け』『海辺のカフカ』など)読解に関わる重要素として、
捉えています。


「二百十日」ですが、
台風一過のように晴れ渡っています。

「健康人」に相応しい一日でありますように。


(続きます。)



*精神分析入門・・・
オーストリアの精神科医・心理学者フロイトは精神分析を提唱し、1915年から1917年にかけてウィーン大学で一般向けに講義を行った。本書はその講義の内容が編集をへて収録されている。その構成は第1部「錯誤行為」、第2部「夢」、第3部「神経症総論」、そして精神分析入門の続編から成り立っている。
フロイトは精神分析の研究を講義するために錯誤行為の知見を導入する。錯誤行為とは意図した行為とは異なる行為を行ってしまうことである。この現象を説明するためにフロイトは心理における葛藤のモデルを用いて錯誤の原因を明らかにしようとする。錯誤行為を心的行為であると把握すれば、錯誤行為は二つの意図の葛藤の表出であると考えられる。つまり何かをしようとする意図が存在するにもかかわらず、それを抑圧することが錯誤行為を行う不可欠の条件である。
フロイトは続いて夢の分析を行っている。夢をみる本人の心理には無意識の領域があると考えれば、夢と無意識との関係が問題となる。フロイトは夢を無意識的なものを歪曲した代理物として見なしており、夢を解釈する目的はこの無意識的なものを発見することと定められる。そもそも夢は願望を直接充足させるものであり、同時にそれは歪曲されて表出されるものである。つまり夢は睡眠を妨げる願望を幻覚的な充足により解決する心的作用である。
また神経症についての概説でフロイトは神経症の症状に対して精神分析のアプローチはどのような着眼点を提供するかを論じている。精神医学にとって神経症は患者の無意識が発現したものであり、錯誤行為や夢のように意味があると考える。




 

広島県福山市の沼隈町産、
九月上旬出荷が旬の種なし大粒ぶどうです。 

これは本当にジューシィで、
新鮮さと甘み溢れる美味しさです。

葡萄全般が秋の季語です。


真ん丸の葡萄頬張り月変わる
(NP)
DCIM1018 

(「二十」は誇張法ではなくて、こんな人は意外に多いと思いますよ、すぐに読めるからね。)

たとえばデレク・ハートフィールドですね。
この架空の作家を、
村上春樹はなぜ、
作品冒頭と、
「あとがき」(小説自体の末尾)とで、
詳細克明に語らねばならなかったのか。

また主要登場人物の「鼠」(ねずみ)ですね。
主人公の「僕」にとって、
一体どんな意味合い・位置付けで、
姿を現して又姿を消すのか。
次作以降での再登場がすでに見えていたのか。

さらに4本指の「彼女」ですね。
体に特徴のある女性の描き方において、
セクシュアリティ(性活動全般)や、
ジェンダー(広義での性差)を盛り込むことで、
作者は何を企図しているのか。

などなど・・・。


昨日一作通しで読み返してみましたが、
本当に何度読んでも興味深くて面白いし、
「芥川賞選考委員」たちの途惑いと、
憮然たる拒絶反応とが想像できます。 

「芥川賞史上・最大の汚点(失敗)」と言われていますね、
村上春樹氏に芥川賞を授与しなかったことは。
ちなみに二つ目は戦前に戻りますが太宰治に与えなかったことかな、
選考委員で後のノーベル文学賞作家(1968年)川端康成が反対しています。

世界のハルキ・ムラカミは、
デビュー作の「風の歌を聴け」が第81回(1979年上半期)、
続いて「1973年のピンボール」が第83回(1980年上半期)の芥川賞候補にあがったものの、
いずれも選から漏れています。

当時の選考委員だった、
これも後のノーベル文学賞作家(1994年)大江健三郎氏は、
一回目は反対し、
二回目は認めたことも伝わっています。

三回目は、
対象作品が、
初期三部作の最後にあたる『羊をめぐる冒険』になるはずでした。
しかし、
芥川賞の対象要件を大幅に越えた長編物語だったのと、
すでにベストセラー作家になってしまっていたこととでノミネート自体から外れました。

・・・・・・

昨日の職員室で、
「『海辺のカフカ』を中三でやりますよ。」と言ったら、
『東大の現代文25カ年』(教学社)の著者である桑原聡先生が、
「えええ~」と驚かれていました。
近々一緒に「あそぶ」ことになっているので、
先生の読解のツボもまたお聞きしようと考えています。

その桑原先生と言えば・・・、
『風の歌を聴け』の中で、
上記「彼女」が「僕」に向かって投げつけた終盤のセリフをオリジナル問題化しています。

最初お聞きした時に「えええっ」と思って分からなかったのを覚えています、
とても痛快な問題です。

現行の講談社文庫で言えばp134です。


「嘘つき!」

と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。


・・・とあるが「ひとつ」の「嘘」とは何か答えよ。

・・・という設問です。
もちろん彼女と僕の台詞のやり取りは、
その直前の2頁に事細かく載っていて、
僕のセリフのいずれか一つだけに嘘があるのです。

今度のあそびの際に、
あらためて「分かりやすい」解説例をうかがっておきますが・・・。

・・・・・・

皆さん、
分からないことを嫌がりますね。

分かりにくいことはわるいこと、
分かりやすいことはいいこと、
本当にそうなのでしょうか。


「分からないことをもっと楽しむ」ような一日でありますように。
 

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』は、
第2章冒頭で記されたように「1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。」物語となっています。

一方・・・、

夏目漱石の前期三部作・三作目『門』は、
明治43年つまり「1910年の8月6日に胃潰瘍の療養で修善寺温泉に赴いたが、病状悪化、18日後の8月24日夜には大吐血、危篤状態に陥った」ことへと直結して連載終了しています。

日付・日数の符合は兎も角(ともかく)として、
わずか60年しか経っていないことにあらためて気付かされます。
それぞれの年に、
前者は21歳(作品発表時は30歳)、
後者は43歳でした。


村上春樹は、
主人公「僕」のナレーションとして、
作品の第1章でデレク・ハートフィールドという架空の作家の「不毛な死」と、
二人の叔父の「悲惨な死」について語っています。

そしてその直後に、
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い溝が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。」とあります。

漱石であったら、
「僕(僕たち)」ではなく「余(人)」と記したでしょうか。


過ぎ去った「青春への鎮魂歌(レクイエム)」として、
『風の歌を聴け』も、
『門』も読み解くことが出来ます。

それは夏の終わりに読むに相応しいように思えます。


村上春樹はノーベル文学賞・最有力候補作家
そして、
夏目漱石は架空ではなく伝説の大作家です。





 

 

前述のスヌーピーに関して、
シュルツ氏の漫画に準拠すると、
バースデイケーキと共に描かれた8月28日が誕生日という説もあります。

8月10日生まれと思い込んでいましたが、
それは2011年に決定された公式サイトの発表で、
日本記念日協会にも2015年に認定されているそうです。
(Wikipedia記事を参照編集、以下も同様。) 

スヌーピーはデイジーヒル子犬園で生まれた8匹兄弟姉妹で御存知(?)の通り。
スパイク(Spike)・・・帽子と髭がトレードマークのスヌーピーの兄。
オラフ(Olaf)・・・スヌーピーの弟で醜犬コンテストで優勝した経験があるほどの太っちょ。
アンディ(Andy)・・・スヌーピーの兄か弟。毛がふさふさしているという点以外はスヌーピーにそっくり。
マーブルス(Marbles)・・・スヌーピーの弟。名前の通り耳や体の模様がぶち(アニメではぶちは茶色)。
ベル(Belle)・・・スヌーピーの妹でパッチリとした目が特徴。息子とカンザスシティに在住。
ローバー(Rover)・・・スヌーピーの兄か弟。テレビスペシャルで登場したが『ピーナッツ』では登場せず。
モーリー(Molly)・・・スヌーピーの女きょうだいで姉か妹。ローバーと同様の登場形態。

・・・・・・

ギリシャ神話の九女神MUSEに準(なぞら)えてもいいのですが・・・(無理無理)・・・、
思い切って『南総里見八犬伝』*の「八犬」ですね。

それぞれが持っている数珠玉(じゅずだま)の文字は・・・、

仁(いたわり・愛情のあること)
義(おこなうべき正しい道筋)
礼(社会生活全般の倫理規範)
智(物事を理解する賢い能力)
忠(まごころをこめて尽くすこと)
信(うそいつわりのないまこと)
孝(親を敬い大切にすること)
悌(兄や目上に忠実に仕えること)


う~んんん、
スヌーピー世界の「八犬」とは・・・、
やはり、
どう考えても繋がらないようですね。

ただ・・・、
神話も物語も、
九女神
八犬
八犬士
と・・・「オムニバス」世界を感得することが出来ます。

MUSEの「美」とは、
OMNIBUS**のそれではないかと思えるのです。

独立したキャラ・作品(piece)の寄せ集めで、
まとめて見ると総体的な鑑賞世界(total object)が成立するということです。
ひとつひとつの美、
時場を越えて大きな美。

【9月1日追記:museumはmuseを含んで「寄せ集め」という意味での「博物館・美術館」ですね。】


NPの私淑(ししゅく)している福永武彦という作家の、
『忘却の河』という作品を想い起こしました。

とても美しい時と場を描いたオムニバス小説です。
読み返したくなったので、
よく似合いそうな季節九月に、
あらためて記してみます。




*『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)・・・
江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
室町時代後期を舞台に、安房国里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣を身体のどこかに持っている。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。
馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。
[Wiki編集] 
 
**オムニバス(英: omnibus)・・・
すでに発行された独立した作品を集め、ひとつにまとめて一作品としたものである。
日本における用法は、派生的なもので英語でのそれと異なるので注意を要する。
オムニバス(omnibus)は、元々、ラテン語で「すべての人のために」を意味する語で、1826年以降にはそこから派生して「乗合馬車」の意味も加わったと言われる。公共交通機関のバス(bus、英語)の語源にもなった。
そこから発展し、種々の芸術分野で「独立したいくつかのものを一つにまとめた」作品形態を指すようになった。
文学作品におけるそれはアンソロジーであるが、単独の作家により記述されたものである場合のみオムニバスが用いられる。音楽作品でのそれはコンピレーションであり、オムニバスが用いられるのは日本だけである。
[同上]




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