「English Expressions A la carte英語表現アラカルト」というサイトで、
If Winter comes, can Spring be far behind?の和訳として、
If Winter comes, can Spring be far behind?の和訳として、
直訳の「冬が来るなら,春が遥かに在り得ようか?」を、
旭川工業高等専門学校教授の十河克彰というかたが説明記事に挙げていらっしゃいます。
・・・これが日本人お気に入りの phrase になったのは、「冬来たりなば春遠からじ」と,漢文調の翻訳のせいだと思っています。あまりも人口に膾炙(じんこうにかいしゃNP注:広くゆきわたること)したので、出所は中国か日本の古典かと思うほどです・・・と。
旭川工業高等専門学校教授の十河克彰というかたが説明記事に挙げていらっしゃいます。
・・・これが日本人お気に入りの phrase になったのは、「冬来たりなば春遠からじ」と,漢文調の翻訳のせいだと思っています。あまりも人口に膾炙(じんこうにかいしゃNP注:広くゆきわたること)したので、出所は中国か日本の古典かと思うほどです・・・と。
“If Winter comes, can Spring be far behind?” は、Percy Bysshe Shelley の詩 「Ode to the West Wind」(西風に寄せて:1819年) の一節で、
「どんな苦難に遭っても必ず春は訪れることを信じて立ち向かう青年の姿」を詠んだ詩だそうです。
「朝の来ない夜はない」「夜明け前が一番暗い」「夜まさに明けなんとして益々暗し」などを類句とする別のネット記事もあります。
標題の「ことわざ」を古語文法で解析します('ω')ノ。
「来たりなば」の「な」は完了・強意の助動詞「ぬ」の未然形です。
「未然形+ば(接続助詞)」で「順接仮定条件」となり、
「もし~ならば」という訳になります。
「遠からじ」の「じ」は打消推量(意志)の助動詞「じ」の終止形です。
上方の「~ば」と呼応して「(もし~ならば)・・・ないだろう」と訳します。
「~ば、…じ」ですから、
正確には、
「もし冬が来てしまったならば、春は遠くないだろう」という現代語訳になります。
・・・・・・・・・・・・
夏目漱石『門』(明治43年)の末尾は以前にも軽く紹介したことがありますが、
二段落まるごと現代仮名遣いで引用してみます。
小康は斯(か)くして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜の午(ひる)宗助(そうすけ:主人公)は久し振りに、四日目の垢(あか)を流すため横町の洗場に行ったら、五十許(ばかり)の頭を剃(そ)った男と、三十代の商人(あきんど)らしい男が、漸(ようや)く春らしくなったと云って、時候の挨拶を取り換わしていた。若い方が、今朝始めて鶯(うぐいす)の鳴聲(なきごえ)を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分に舌が回りません」
宗助は家(うち)へ帰って御米(およね:主人公の妻)に此(この)鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子(がらす)に映る麗(うら)らかな日影をすかしてみて、「本當(ほんとう)に難有(ありがた)いわね。漸くの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪(き)りながら、
「うん、然(しか)し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。
(『門』1910年3月1日~6月12日:朝日新聞に連載104回のエンディング、作者43歳時)
絶妙の描写と会話のやり取りですね。
苦難を乗り越えて(是非とも原文で御確認を・・・)、
「小康」(一時的に状況がよくなること)を得た夫婦のほのぼのとした雰囲気と、
鶯とともに訪れた早春の有難味とがマッチしています。
末尾一文も決して暗くはありません。
なぜなら「その冬も又じき春になる」からです。
「一陽来復(いちようらいふく)」・・・日はまた昇る、
「艱難(かんなん)汝を玉(たま)にす」・・・苦難がキミを輝かせる。
もうすぐ春です、
冬の終わりと春の始まりとを堪能(たんのう)しましょう(^^♪(^^♪(^^♪。
どんなときもどんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言える気持ち抱きしめてたい
どんなときもどんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること僕は知っているから
(「どんなときも。」1991年 歌・作詞作曲:槇原敬之)・・・曲名に「句点(。)」が付いてたんですね・・・。)
・・・・・・・・・・・・
【冬から春への食】
(晩冬に「おでん」:主役は下に潜んだ「セレベス」)
(春限定商品:「カルビーポテトチップス・あま旨塩味」と「お~いお茶・抹茶入り水だし」)
「どんな苦難に遭っても必ず春は訪れることを信じて立ち向かう青年の姿」を詠んだ詩だそうです。
「朝の来ない夜はない」「夜明け前が一番暗い」「夜まさに明けなんとして益々暗し」などを類句とする別のネット記事もあります。
標題の「ことわざ」を古語文法で解析します('ω')ノ。
「来たりなば」の「な」は完了・強意の助動詞「ぬ」の未然形です。
「未然形+ば(接続助詞)」で「順接仮定条件」となり、
「もし~ならば」という訳になります。
「遠からじ」の「じ」は打消推量(意志)の助動詞「じ」の終止形です。
上方の「~ば」と呼応して「(もし~ならば)・・・ないだろう」と訳します。
「~ば、…じ」ですから、
正確には、
「もし冬が来てしまったならば、春は遠くないだろう」という現代語訳になります。
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夏目漱石『門』(明治43年)の末尾は以前にも軽く紹介したことがありますが、
二段落まるごと現代仮名遣いで引用してみます。
小康は斯(か)くして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜の午(ひる)宗助(そうすけ:主人公)は久し振りに、四日目の垢(あか)を流すため横町の洗場に行ったら、五十許(ばかり)の頭を剃(そ)った男と、三十代の商人(あきんど)らしい男が、漸(ようや)く春らしくなったと云って、時候の挨拶を取り換わしていた。若い方が、今朝始めて鶯(うぐいす)の鳴聲(なきごえ)を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分に舌が回りません」
宗助は家(うち)へ帰って御米(およね:主人公の妻)に此(この)鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子(がらす)に映る麗(うら)らかな日影をすかしてみて、「本當(ほんとう)に難有(ありがた)いわね。漸くの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪(き)りながら、
「うん、然(しか)し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。
(『門』1910年3月1日~6月12日:朝日新聞に連載104回のエンディング、作者43歳時)
絶妙の描写と会話のやり取りですね。
苦難を乗り越えて(是非とも原文で御確認を・・・)、
「小康」(一時的に状況がよくなること)を得た夫婦のほのぼのとした雰囲気と、
鶯とともに訪れた早春の有難味とがマッチしています。
末尾一文も決して暗くはありません。
なぜなら「その冬も又じき春になる」からです。
「一陽来復(いちようらいふく)」・・・日はまた昇る、
「艱難(かんなん)汝を玉(たま)にす」・・・苦難がキミを輝かせる。
もうすぐ春です、
冬の終わりと春の始まりとを堪能(たんのう)しましょう(^^♪(^^♪(^^♪。
どんなときもどんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言える気持ち抱きしめてたい
どんなときもどんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること僕は知っているから
(「どんなときも。」1991年 歌・作詞作曲:槇原敬之)・・・曲名に「句点(。)」が付いてたんですね・・・。)
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【冬から春への食】
(晩冬に「おでん」:主役は下に潜んだ「セレベス」)
(春限定商品:「カルビーポテトチップス・あま旨塩味」と「お~いお茶・抹茶入り水だし」)