1960年代以降のポストモダン、その根幹たる構造主義の発端とも言えるのは、言語学者ソシュールの「言葉論」です。「言葉は偶然性・恣意性が高く、概念化を強迫するもの」と解釈すれば、それは「言霊」の意味にかなり近付きます。
言霊・・・言葉に宿っている不思議な霊威。(広辞苑)
     古代、ことばにやどると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると  
     信じられていた。(日本国語大辞典)

漱石の『こころ』で、「下・先生と遺書」において発せられた「覚悟」の意味を多重的に捉えます。
①(Kにとっての)恋に前進する覚悟。
②(Kにとっての)学業に復帰する覚悟。
③(Kにとっての)自己実存を否定・抹消=自死する覚悟。
④(「私」=先生にとっての)Kを出し抜いて告白する覚悟。
⑤(「私」=先生にとっての)罪の意識に殉じて自死する覚悟。
⑥(私=上・中の主人公にとっての)先生の遺書を受け留める覚悟。

『こころ』は漱石にとって、後になって鑑みると後期三部作の締め括り、構造主義の成せる業(わざ)。
そして、トリレンマを思わせる、Kと、「私」=先生と、主人公=私 の三者。その「覚悟」のトライアングル、真ん中=中心に名前(言葉)通り「静」かに納まる人物、それこそが「お嬢さん」=後の奥さんであるのは言うまでもありません。

とすれば・・・某説のように、先生の遺書で全てを知った私は、残された奥さんと結婚して全てを詳(つまび)らかにする・・・それが「漱石が固執した三角関係」(吉本隆明「こころ」論)の大団円には相応しかったのかも知れません。
「覚悟のK」・・・Kの一画目・縦線が登場人物「K」、二画目斜め線が「先生の私」、三画目の斜め線が「主人公の私」・・・連鎖は続いてゆきます。