ずっと以前に記した「17歳でした。」のコメント欄に投稿をいただきました。
大学受験の年になりますね。
「曇りのち晴れ」を祈っています。
願わくは一年後の快晴を。
今は曇りでもよいのです。
17歳・・・先日来述べている中原中也(陸軍軍医の父の家に生まれました。)が山口から立命館中学に転学後、本格的に詩を書き始めた年齢ですね。
では・・・「曇天②(背景にあるもの)」
肉親の死
1921年(大正10年)に、
養祖父・政熊(66歳)
中也14歳
1928年(昭和3年)に、
父・謙助(52歳)
中也21歳
1931年(昭和6年)に、
三弟・恰三(19歳)
中也24歳
1932年(昭和7年)に、
祖母・スヱ(74歳)
中也25歳
1935年(昭和10年)に、
養祖母・コマ(72歳)
中也27歳
1936年(昭和11年)に、
長男・文也(2歳)
中也29歳
上記以外に・・・
親友(最後は拒絶されました。)の詩人で画家・富永太郎の病死
文学者・牧野信一(中也との接点に坂口安吾がいます。)の縊死(いし)
【=2013年センター本試験・小説『地球儀』の作家です。】
芥川龍之介の服薬死
小林多喜二の拷問死
詩集『在りし日の歌』(この中の「永訣の秋」の部に「曇天」)の背景にあるものは・・・
すべての、あらゆる死だったと思われます。
「曇天」とは中原中也の心。
そこに翻る「黒い旗」はさまざまな「死」であったことは言うまでもありません。
そしてマクロには・・・「曇天」は日本の近未来をも暗示していたに違いありません。
思えば、牧野信一の「地球儀」もそうだったのです、きっと。
大学受験の年になりますね。
「曇りのち晴れ」を祈っています。
願わくは一年後の快晴を。
今は曇りでもよいのです。
17歳・・・先日来述べている中原中也(陸軍軍医の父の家に生まれました。)が山口から立命館中学に転学後、本格的に詩を書き始めた年齢ですね。
では・・・「曇天②(背景にあるもの)」
肉親の死
1921年(大正10年)に、
養祖父・政熊(66歳)
中也14歳
1928年(昭和3年)に、
父・謙助(52歳)
中也21歳
1931年(昭和6年)に、
三弟・恰三(19歳)
中也24歳
1932年(昭和7年)に、
祖母・スヱ(74歳)
中也25歳
1935年(昭和10年)に、
養祖母・コマ(72歳)
中也27歳
1936年(昭和11年)に、
長男・文也(2歳)
中也29歳
上記以外に・・・
親友(最後は拒絶されました。)の詩人で画家・富永太郎の病死
文学者・牧野信一(中也との接点に坂口安吾がいます。)の縊死(いし)
【=2013年センター本試験・小説『地球儀』の作家です。】
芥川龍之介の服薬死
小林多喜二の拷問死
詩集『在りし日の歌』(この中の「永訣の秋」の部に「曇天」)の背景にあるものは・・・
すべての、あらゆる死だったと思われます。
「曇天」とは中原中也の心。
そこに翻る「黒い旗」はさまざまな「死」であったことは言うまでもありません。
そしてマクロには・・・「曇天」は日本の近未来をも暗示していたに違いありません。
思えば、牧野信一の「地球儀」もそうだったのです、きっと。
コメント
コメント一覧 (4)
かならず
晴れる日があるからこそ
生きていける
文学を専攻していないのでわかりませんが、解釈の技法が構造-機能主義(パーソンズ)の発想に近いのかな、と思いました。
とすれば、(一気に飛躍させますが)社会変動が起こるのは、なぜだと思われますか?おそらく、パーソンズでは説明しきれない点です(言語を基礎とする「構築主義」でも補完しきれないかと・・・)。人間の主体的側面とは?
一昨日、先生の最後の授業を受けました。あの対比のプリントのやつです。先生の授業がずーっと好きで、特に好きだったのは、「ヘーゲルの弁証法」と、「ポプラの秋」の最終文の解釈です。私の中では正直、あの部分はまだ謎です。一生わからない気もします。
先生は、私の国語観、言うならば世界観をも変えてくれました。本当に感謝しています。
ありがとうございました。