近松門左衛門(江戸元禄の浄瑠璃・じょうるり=人形劇の台本作家)の理念を、本人ではなく研究家がそう言っています。虚(作りごと)と実(本当のこと)の硲(はざま=狭間・間)に、作品世界を築くことですね。皮膜は「ひにく」とも読み、「皮肉」に通じています。紙一重(かみひとえ)でどちらでもあるような、「境界」(境目の世界)のこと。そう言えば、先日述べた2012センター評論の木村敏さんは、出題部分文章の象徴例の位置で、「自我境界」を引き合いに出しています。自分と他者の境界のことです。

近々、『冬物語2012』という短編小説を、飛び石で連載開始します。「虚実の皮膜」です。ぜひ感想をコメントして下さいね。


では、山椒魚・解説④「結論」(主題)です。

 作者は、昭和60年自選全集刊行の際に、作品最終節の大部分「山椒魚と蛙の和解的やり取り」を削除して、物議を醸(ぶつぎをかも)しました。老大家による長い時を越えての再編、定評を受け固定化されたはずの作品世界の改変でした。
 「友情を瞳にこめて」「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」・・・こうした言葉は、何故(なぜ)不要になったのでしょうか。夫人であったかも知れない蛙との掛け合いに寄せて、是非とも記したかった奥さんへのメッセージは、その時点では、もうすっかり昇華(しょうか)されていた・・・と空想を飛躍させて、面白く味わってみましょう。象徴暗喩的作品の醍醐味(だいごみ)として、荒唐無稽(こうとうむけい~そんなばかなことあるはずがないのに~という虚実の皮膜)な読みもあっていいのです。
 勿論(もちろん)、山椒魚は“自閉的に佇(たたず)む読者自身”でもあります。その限りにおいて、『山椒魚』もまた、作者らしく、のったりと長生きし続けることでしょう。


寒い寒い寒い、「節分」ですね、今から「丸かぶりロールケーキ」を買いに行きます。