ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデが『聖と俗』で宗教的なるものの本質として論じ、フランスの社会学者エミール・デュルケームが「聖俗二元論」で善悪ではない統一的なものと個人の日頃の関心事として敷衍(ふえん:押し広げて考えること)した、近代到来における思考対立軸のひとつ。

・・・と、まずNPは纏(まと)めてみました。
「ハレとケ(晴れと褻)」にも通じますね。

先日の続きなのですが・・・出雲と伊勢の双方に、「聖と俗」の極端な融合点あるいは臨界点とも言えるような、別種の「パワースポット」を感じたのです。強(し)いて言えば、聖地と俗界の出会いという権化(ごんげ:抽象性の具体化)でしょうか。

ミュトス(聖なる神話)にパトス(俗たる情念)が、ロゴス(聖なる言葉)にエートス(俗たる風習)が、凄(すさ)まじいまでに蠢(うごめ)いて各々の発露(はつろ)を求めている・・・ような感じ・・・です。
これら四つの要素は、聖・俗をそっくり入れ替えても成立してしまうような、それが「違和感」の正体かなと今は思っています。

専門家のSNさんに失笑・説諭されそうです。また御教示いただいて、誤謬(ごびゅう)を正したく思います。

・・・懲(こ)りずに・・・では、なぜそこに集うのか、参るのかということです。
全身全霊で聖俗の「重複対比」状態を味わう心地よさ・・・そんなに単純(複雑?)でもなさそうです。

『千と千尋の神隠し』も、果たしてそうであるのか。
「白龍(ハク)」の意味は「俗から立ち昇る聖なるもの」でよいのか。
ジブリの新作『風立ちぬ』に、何か新たなる解釈は立つのか。
堀辰雄の『聖家族』は、芥川龍之介が「生から死へと立ち昇ったこと」と関連はあるのか。
河童忌(芥川龍之介の命日)は7月24日、何も思わず過ぎてしまった日常、そこにも「聖と俗」はあるのか。

・・・自虐テロにも似たライトモティーフ的錯乱、「俗の骨頂」としてお赦(ゆる)し下さいね~。
そう言えば、久々に「らも検」、文脈なし読み仮名問題で大量にお送りします・・・近日公開。
公開・・・いくつもの映画に行きたい、その原作も読みたい、それについて語りたいと願っています。

今日も読んでいただいて有り難うございます。

(松江の志桜塾・長谷剛先生のブログ末尾文、NPも使わせていただきました。9月3日、長谷先生とお会いできるのを心から楽しみにしております。本文中のSNさんにも是非来ていただこうと企てております。・・・飛び入り参加ご希望のかた、御一報下さいませ、お二人のお許しが要りますので・・・。)