seek  &  find

ずっと以前に展開していた別のブログに掲載したものです。
(「ライトモティーフ」では、川上弘美さんはほとんど見当たらず。)

これを、NPは当時中2生の期末考査問題に全文用いました。
なんとも無茶なレベルを要求して、またそれに応えてくれたものです。
今年度卒業の中高一貫生諸君へ、あらためて・・・

おめでとう、ありがとう。


今日は旧暦元日、まもなく新暦立春。
もうすぐ春ですね♪


『花野』試論~生と救いを廻って

  川上弘美氏がカトリック信者であるか否かは留保しても、『花野』という静謐(せいひつ)な物語にはひとつの「神」に対する解釈が含まれている。それは生に対置させて死の世界を想定しながらも、「花野」自体が、その両者の硲(狭間)にある時間と空間を意味することと密接に関係する。生の対極としてではなく死を意識すること、もしくは生の中にこそ死はすでに内包されていることを意識することは、必然的に両者を往来できる・見すえるものの存在に思い至らざるを得ないのである。「花野」の表面的な美的描写は川上氏の「空気感」の結晶であるが、同時に裏面的には「生の墓場」としての深層も孕んでいる。「立ち会う存在」の神、如何に関わらず、無名性を持つ「わたし」は、生きながらにして死の世界を覗き込んでやまない、不特定数の現代人を提喩しているとさえ言えよう。
  
  叔父がなぜ妻子の元へではなく、「わたし」という姪のところへ繰り返し実体のない、しかし現実感のある来訪をするのかということを突き詰めると、逆に存在感の希薄な「わたし」の方が死の世界の象徴たる叔父の元へ誘(いざな)われているという「裏読み」が成立するのである。叔父は三回目からこれも実体のない「饅頭」を持ってくるようになるが、渡そう・伝えようとしても仲々果たせないという叔父の心の暗喩であろう。雑多で脈絡のない話題を語り続けながらも、最大の気がかりでもある関心事は「わたし」がそこに来ることを止めたいという一点なのである。「秩序」(無秩序)を説くのも、「わたし」という一個の人間存在・存在自体が大きく揺らいでいることを思わせるし、「掘り出す」(発見する)ことは、「わたし」という存在の自己確立を促(うなが)していることに他ならない。叔父が「還る」(消える)のを繰り返すのは、生と死が輪廻的に繋がっていることに通じている。そこには「神を信じない」(虚としての「信じる」の裏で、むしろこちらが見せかけの「真」)から最後には「いないこともないものなのかもしれん」へと変わってゆく過程を示すことで、生の持つ意義や価値を、裏側としての死の持つ意味や深長さを、その度に諭そうとする、あたかも「神」からの使者のようにも思われるのである。「同じ傘の中」(相合い傘)に二人が入る印象的なシーンからは、叔父の想い遣りと「わたし」の思慕という愛情の臨界(到達)点を読み取ることができよう。そこから物語は一気に結びへと収束されてゆくのである。
  
  一見して唐突に叔父は「最後」の覚悟を切り出すが、それは「わたし」こそがもうここに来てほしくはないという切実な願いでもある。確信的に「わたし」は最後の決意を試されるのである。「願い事」を聞く叔父は、裏読みとして、叔父自身の強く願っていることを姪が願うことを祈っているのである。したがってその願いの「午餐」として叔父が出してきた「そら豆」を、「最後の晩餐」のようにして、まず「わたし」が食べることが出来て、さらに姪の勧めによってようやく共有して叔父が味わうことになるのには重要な意味がある。「そら豆」は叔父の最後の願いに明確に応えた「わたしの心」そのものなのである。つまりは、もうこの場所には来ない、完全に生の世界に回帰してゆき自己存在を確立するという意思表示であり、それを叔父が受容する、ここに意思疎通は遂に果たされるのである。相互救済、「魂の救い」をそこに見る。互いにふさわしい世界に戻れる、まさに「感謝」ということなのであり、静謐どころか熱情がそこにある。
  
  最後の最後のセリフ「いつか、また、会おう」とは、天寿を全(まっと)うしたのちに、彼岸で会うべくして会おうという訣別にも思えるが、真相は、「わたし」が現代人の誰であってもよい以上、実にしたたかに「すべての読者」へのメッセージとなっているのである。稚拙な言葉になるが、「死ぬまであなた自身を全うして生きて下さい」ということである。まわりの空気がゆらゆらとして、叔父が完全にいなくなった後、ゆるやかに豊かに「わたし」すなわち「読者自身」の確かな生の時間が流れ始めるのである。そこに群れ咲く小さな草の花は、現代を生きる人の孤独な、しかし健気で尊い一個一個の命であり魂なのである。