知人の専門家(学生時代以来の研究領域ですね)に訊(き)いてみたところ・・・、
丁重な返信をいただいたので、御本人の諒解を得て、そのまま以下に援用させていただきます。
有り難うございます、さらに宜しく御教示下さい。
【K女子大中高のKK先生のKi表紙概説】
ブログ拝読しました。黄表紙、洒落本については先生の記述の通りだと思います。少し補足をしますと、黄表紙は政治批判内容がまずかったのと同時に、作者に武家が多かったことが引っかかったのだと思います。処罰を受けそうになった喜三二も春町も武士ですから。今だと県庁エリートが政府批判・揶揄の本を出版したようなものです。京伝は町人ですが、代表作者としての見せしめでしょう。
黄表紙についてはどうぞお使いください。喜三二も春町も藩の中枢にいる人ですから、ここを押さえれば綱紀粛正になると踏んだのでしょうね。大田南畝が助かったのは幕臣だったからかもしれません。
後方に、相当量のWikiからの情報NP編集による人物紹介を付けます。
この辺りの扱いは、「文学」としても、所謂「文学史」としても、はたまた「日本史」としても、非常不当に薄いように思えてなりません。
KK先生、いかがなものでしょうか。
これらは・・・教え伝える側(いわゆる教員ですね)による、一種の「綱紀粛正」「風紀粛清」を兼ねているのかも知れません。
さすれば・・・言論統制・思想弾圧もまた、きわめて国家主義・事大主義・御都合主義の「粛清希求」「自粛ムード」を伴って(装って)忍び寄ってくるに違いありません。
まさに・・・権威権力とは・・・、
哀しいかな、自ら被支配を願い望んでしまうもの(フーコー)にならぬように・・・、
そう、歴史に学ばねばなりませんね。
危険・危機。
喜三二・・・朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者。本名は平沢 常富(ひらさわ つねとみ)で、江戸中期の出羽国久保田藩の定府藩士江戸留守居。 松平定信の文武奨励策(寛政の改革:1787年~1793年)を風刺した黄表紙『文武二道万石通』を執筆し天明8年(1788年)に上梓したことから藩主・佐竹義和より叱りを受けたらしく、黄表紙からは手を引き、以降はもっぱら狂歌作りに没頭した。
春町・・・恋川春町(こいかわ はるまち)は、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師である。本名は倉橋 格(くらはし いたる)で、駿河小島藩・滝脇松平家の年寄本役として藩中枢に関与していた。江戸藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けた。安永4年(1775年)『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、のちに黄表紙といわれるジャンルを開拓し、一躍売れっ子作家となる。1788年に執筆した黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)、定信に呼び出しを受ける。春町は病気として出頭せず隠居しまもなく死去したという。自殺と推測する著書もある。
京伝・・・ 山東京伝(さんとう きょうでん)は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。寛政の改革における出版統制により、1791年、洒落本3作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖50日の処分を受ける。自宅を洪水に見舞われた曲亭馬琴が逗留し執筆を助ける。筆禍後は思い屈したため、曲亭馬琴・感和亭鬼武らがしばしば代作を行なう。この年、黄表紙『人間一生胸算用(にんげんいっしょうむなさんよう)』・『箱入娘面屋人形(はこいりむすめめんやにんぎょう)』、洒落本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』・『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』・『錦の裏』刊行。
大田 南畝(おおた なんぽ)・・・天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。南畝は号で、別号は蜀山人など多数あり。狂名、四方赤良(よものあから)。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。
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