御縁あって、萩原朔太郎の一族でいらっしゃる老貴婦人からいただいた一冊の本(2002年10月刊)・・・、

萩原隆 氏著で、医家の血脈についても余すところなく読むことができます。 

「ミッシングリンク」という章の中で・・・、

朔太郎が明治40年4月に伯父あてに送った葉書で「入試失敗の件」に触れているが、その詳細は朔太郎年譜の中にずっと抜けていた と。 
どこを受験したのか不明であった と。

朔太郎の従兄(いとこ)によって記され遺されていた克明な日記で、欠落していた明治40年分が、昭和56年夏の萩原隆 家 増改築の折に、「沢山のガラクタ」の中から出てきたと。

ここにミッシングリンクが完結した」、
明治四十年の事件は私が想像した通りであった」との表記です。


要は・・・、
朔太郎は明治39年に前橋中学を卒業し、同校補習科に入学するも4か月で退学、早稲田中学補習科に入り直して約一年間通学。
当時の朔太郎は非行癖もあった(らしい)ので、両親は心配していたのだが、伯父の勧めがあって、一時文学への耽溺*を絶ち、大阪高等医学校(現在の阪大医学部)を受験した・・・と。


このことは、朔太郎にとっては大きな転機であり、また挫折でもあったとNPにも想像できます。


「もし朔太郎が医者になっていたら」という章もあります・・・。

朔太郎と直接関係は無いのですが、面白いのでそのまま援用してみます。

不幸にして朔太郎(当時二十二歳)は医学校の受験に失敗した。・・・このところ医者の登龍門が狭き門となって久しい。医者という職業がそんなにうま味のあるものなのか? 進学高校では偏差値の高い生徒には先生が医学部受験を勧めるというからこれは異常事態である。医学など応用科学の一分野に過ぎず特に秀でた才能が要求される分野ではないのだ。一家一門のなかに医者が輩出することを名誉とする風潮がまだ一部に見られるけれども、こんなのは後進性社会の指標でしかないと私には思える。


「まだ一部に見られる」とありますが、この本が書かれてから12年が経ちます。
さらに「後進性」が進行した(=退行)と言うべきなのでしょうか。
しかし、医学部医学科という進路希望は、受験生本人の強い主体的選択である場合も多いですからね・・・、
一概には・・・。 


さて、朔太郎本人は・・・室生犀星を論じた文章を遺しています。
その一節を、標題の本の中に見つけたので、次回紹介して「続編」にしたいと考えます。
これも朔太郎にとってのミッシングリンクかも知れません。


あなたのミッシングリンクは何でしょうか。
何かが見つかり大事がつながりますように。


*耽溺(たんでき)
・・・不健全な遊びに夢中になり、それ以外の事を顧みないこと。「酒色**に―する」 
**酒色(しゅしょく)
・・・[男が身持をくずす基としての]酒と女。「―にふける」

相変わらず、「新明解」はホントに明解ですね。