今宵は上弦の月(旧暦1月8日)、昨日の北野天満宮の梅は見頃近くにTV画面では見えていましたから、晴れればさぞかし「春宵一刻」も綺麗なことと思われます。


昭和11(1936)年2月26日、東京は30年ぶりの大雪だったそうです。未明に陸軍青年将校によるクーデターは勃発しました。皇道派の野中四郎・安藤輝三らの決起により、岡田啓介首相と鈴木貫太郎侍従長は九死に一生を得て逃れたものの、高橋是清蔵相・斎藤実大臣・渡辺錠太郎教育総監らが殺害され、1483名の兵により永田町・霞が関・赤坂・三宅坂が占領されました。・・・最終的には昭和天皇の奉勅命令によって29日午後には反乱部隊は投降解体したというのが事件の顛末です。

次の記事を見つけました。[ニコニコ大百科より]
・・・文学・思想界では左右両派ともに分かれており、太宰治は「誰もやってはいけないと思っていたこと」をやったとして、激しい憤りを覚えたことを戦後の著書で述べている。一方、彼を徹底的に嫌っていた三島由紀夫は「この事件こそ精神と政治の衝突である」と述べ、全面的に肯定する作品を何部か描いている。

太宰治(昭和23年40歳没)、三島由紀夫(昭和45年45歳没)、ともに生き永らえていたら、どんな小説世界を見せてくれたのでしょうか。太宰は無理でしょうが、戦後70年の今、三島はどんな発言を行動をしているでしょうか。もしかすると欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、矍鑠(かくしゃく)として「今こそ決起せよ」と、変わらず叫んでいるのかも知れません。そして、それは2.26事件がそうであったように、次なる大きな戦争への確かな里程標となっていくのかも・・・。三島の文学作品を否定するものでは全くありませんが・・・たとえば「戦後70年談話」の中身・成り行き次第では、空恐ろしい思いがしてなりません。

日付にちなんで、少しだけ歴史と文学の小道を散歩してみました。 


女子生徒MTさんにおばあさまの著書を一冊いただきました。
奥村久美子さん『ちん オモーニ 戦争の中の子どもたち』です。
1931年岡山県児島郡生まれのかたで、この書を刊行された時(1983年8月15日初版) には現住所・西宮市津門西口町となっています。

NP、学生後半と院生時代その津門西口町に住んでいました。
また、七年前に大阪に戻ってくる直前の一年間、岡山県の児島にも住んでいたことがあります。

実は、MTさんを通してせがんで著者サインをしていただきました。
一筆箋を添えて応えて下さいました。
勝手ながら紹介させていただきます。
「拙いものを お読みいただきまことにありがとうございます。子供をこのように育て 子供にこのような経験をさせたお国に対し、未だに強い怒りを感じて居ります。 奥村」

拙いどころか、巻末で当時の松蔭女子学院大学教授・小島輝正氏が「・・・書き手としての淪(かわ)らぬ資質を証ししてくれたことを私はよろこぶ。」と記していらっしゃるように、すべてが心に残る逸文で、また語り継がねばならない言葉たちばかりだと強く思います。
「ふるさと」「神戸」「太平洋戦争」の全三章から成る200頁余に及ぶ連作短編集です。

今朝、「あとがき」に辿りついて、泣いておりました。
(近年涙脆くなって困っていますが、正味泣きました。)

簡単に一作あるいは一作ずつに触れることが出来ません。
作品の最後「昭和二十年八月十五日」で主人公の「わたし」は十四歳になっています。

読ませていただいて有り難うございました。
カナダへ持ってゆき、もう一度隅々まで読ませていただきます。

以下に「あとがき」の一部を援用させていただきます。
取り急ぎ、心から、ありがとうございました。


私の子どもが小学生の時、私はこれを書き、子どもたちに読ませました。ベトナム戦争の頃で、テレビの画面に、焼夷弾に背中を焼かれ、泣きながら逃げて来る半裸のベトナムの少女が写し出されました。それは第二次世界大戦下の私たちの姿でしたし、ベトナムを襲う飛行機-私たちを襲ったB29の優秀な弟分とも言うべきB52-が私たちの国から飛び立つのも苦しいことでした。この苦しみの照らし出す古い記憶の中から、私は、生え際の小さなハゲとか、左手小指の鎌の傷あとのように、心と体にしっかりと刻みつけられていることだけを書きました。
「人間は、もう戦争をしてはならない。」
という私の思いを子どもたちに伝えるためでした。
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