ペンネームの通り、
晩秋 紅葉の頃に逝ったのですね。

こうようき・・・明治の文人 尾崎紅葉*の忌日です。
漱石や子規と同年の生まれ(慶応3年)で、
子規逝去から一年後(明治36年)の10月30日に満35歳で他界しました。
子規の早逝は知られていますが、
紅葉もほぼ同一の時代を生きたことは意外と知られていません。
後方下記にあるように『金色夜叉』(こんじきやしゃ)は未完であることや、
子規と並んで俳句界の「新派」とされていたことも。


筑摩書房の日本文學全集の「紅葉」収録の一巻は、
「漱石の家人」さんに貸したまま手元に無いので、
読み拾いを「青空文庫」で・・・。


戯曲ですね、はい。
台詞(せりふ)が舞台芸術そのものです。
地(じ)の文は台詞の為の「ト書き」**になっています。

前編のみ速読してみたのですが、
これだけの台詞とボリュームがあると、
やはり横書きはNPには読み辛いですね。
目は横並びに二つ付いているので、
本来は横書きの方が読み易いはずですよね、英文のように。

「速読教室」で仕事を得てインストラクターを短期間していたことがあるのですが、
指導パソコンの画面は常に横に流れていました。
「斜め読みでは無く塊(かたまり)読み」を強く意識するタイプの速読でした。

思い出して試みましたが「ルビ」***が多く煩わしいんですね、これが・・・。
「馴(な)れ」でしょうか、単に。


さて、そこで、
ちゃっかりと「あらすじ」を探してみました。
比較的よく知られている内容の部分ですね。

【「言の葉の森」より編集「前編」】
間貫一(はざまかんいち)は十五歳で身寄りをなくし、途方に暮れていたところを亡父に生前世話になったという鴫沢隆三(しぎさわりゅうぞう)の家に迎えられ、以来十年、一切の援助を受けている。
鴫沢家には宮(みや)という一人娘がいたが、貫一は隆三から品行方正で優秀な学生であることを認められ、宮の婚約者となっていた。
宮は自他ともに認める美女であり、美しさで富や名声を得られると考えていた。そんな宮にとって、自分の家の援助を受けている書生の貫一は、憎からず思うものの物足りない存在だった。貫一は心底宮に惚れているため、ふたりの想いには大きな落差があり、貫一は宮の淡泊さにいつも気を揉んでいた。
夏に結婚する予定だった年の新春の骨牌(かるた)の会で、宮は富山唯継(とみやまただつぐ)という銀行家の跡取りに見初められる。
夢想していた美によって富や栄誉を得られる好機に、宮と鴫沢家は貫一に黙って富山との縁談を進めてしまう。
後から事情を聞かされた貫一は激怒。
宮が静養している熱海まで追いかけて真意を聞こうとするが、宮は富山に嫁ぐ意思を変えない。
貫一は宮を蹴り倒して失踪する。

 
この後貫一は絶望の余り死のうとしても死に切れず結局高利貸しの手代となって・・・、
また宮は富山の妻となるもいかに貫一を愛していたかを思い知って・・・という劇場型の進行ですね。


確かにその通りなのですが、
この物語のキーワードは「金剛石」(ダイヤモンド)なんですね。
前編には繰り返し繰り返し用いられています。

「七千円」の財家(ざいけ:財産・財貨)を持つ相手だということも。
その頃の貨幣価値で、
漱石の朝日新聞社との専属契約時(明治40年)と同じ換算式を適用して推計すれば、
7000円×2万=約1億4000万でしょうか。
(漱石は月収200円+賞与を提示されたと言われています。社長160円よりもかなり多かったんですね。年俸にして、現在の約5000万円でしょうか。)


「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」

貫一の印象的なセリフです。
尾崎紅葉自身の晩年も又このようだったのかも知れません。
大人気作家として持て囃(はや)されながら、
恐らくは過酷な執筆で健康を損ね無念の生涯を閉じています。


そして、
三島由紀夫の『金色夜叉』批評★を見付けました。
最後方に援用しておきます。
きわめて鋭いなあ、参りました。

休日ですが文化祭準備などで職場に行きます。

「紅葉の如き熟成」がありますように。

【追添付:本館の東側と西側】
DCIM1198 (1)

DCIM1199



























































*尾崎 紅葉(おざき こうよう)・・・
1868年1月10日(慶応3年12月16日)~1903年(明治36年10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸生まれ。帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社(けんゆうしゃ)を設立し「我楽多文庫」(がらくたぶんこ)を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)明治期の文壇の重きをなした。1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいる。
俳人としても角田竹冷らとともに、秋声会を興し正岡子規と並んで新派と称された。
【付記】1897年(明治30年)、「金色夜叉」の連載が『読売新聞』で始まる。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い大人気作となった。以後断続的に書かれることになるが、もともと病弱であったためこの長期連載が災いし、1899年(明治32年)から健康を害した。療養のために塩原や修善寺に赴き、1903年(明治36年)に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、3月、胃癌と診断され中断。10月30日、自宅で没した。紅葉の墓は青山墓地にある・・・。
(Wikipdediaより編集。(^^)/「もともと病弱であったため」以降は、漱石の歩んだ道と酷似して重なりますね。そして、「朝日」新聞が漱石をどうしても欲しがった理由も「読売」での紅葉ブレークと合わせて見えてきます。ちなみに、だからこそ芥川を招聘しょうへい したのは「毎日」だったのです。)

**ト書き・・・
〔指定の言葉が「…ト両人歩み寄り…」などと「ト」ではじまる、歌舞伎脚本から起こった語〕
脚本で、せりふの間に、俳優の動き・出入り、照明・音楽・効果などの演出を説明したり指定したりした文章。
(大辞林・第三版)

***ルビ ruby ・・・
振り仮名用の活字。また、振り仮名。英国でルビーとよばれた5.5ポイントの欧文活字の大きさが、和文で5号活字の振り仮名として用いた7号活字とほぼ等しかったところからいう。「―を振る」
(同上、へえええええー(^◇^)。) 


★・・・
三島由紀夫は、金色夜叉の名文として知られる、「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」を挙げ、この名文が浄瑠璃や能の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている部分だと解説し、「『金色夜叉』は、当時としては大胆な実験小説であつたが、その実験の部分よりも伝統的な部分で今日なほ新鮮なのである」と述べている。また小説の主題である金権主義と恋愛の関係については、「金権主義が社会主義的税制のおかげで一応穏便にカバーされてゐる現代は、その実、『金色夜叉』の時代よりもさらに奥深い金権主義の時代なのであるが、これに対する抗議が今ほど聞かれない時代もめづらしい。といふのは、現代では、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇してゐるからであり、『金色夜叉』において、金に明瞭に対比させられてゐる恋愛の主題には、実はそれ以上のものが秘められてゐたのである」と述べている。
(Wikipediaより「金色夜叉」の項目から。凄いですね(@_@。)