愕習です。

治安維持法が成立した1925年(大正14年)3月から、
公布された同年4月22日から、
92年が過ぎ去りました。

【治安維持法】
ちあんいじほう
大正一四年四月二二日公布
第一条〔1〕国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮(きんこ)ニ処ス
〔2〕前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二条 前条第一項ノ目的ヲ以(もっ)テ其(そ)ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為(な)シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動(せんどう)シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第四条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ騒擾(そうじょう)、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若(もしく)ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦(また)同シ
第六条 前五条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス
第七条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス
[出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)]


【治安維持法に関する説明記事】
大正14年法律 46号。大日本帝国憲法体制下で,思想運動,大衆運動弾圧の中心にすえられた法律。 1924年6月に成立した加藤高明内閣 (護憲三派内閣 ) は,大正デモクラシーの要望に譲歩して 25年3月に普通選挙法を成立させたが,これに反対する枢密院工作として治安維持法を同時に成立させた。 22年に審議未了となった過激社会運動取締法案や,23年の関東大震災時に緊急勅令として公布された治安維持令などを集成して,「国体ヲ変革シ,及ビ私有財産制度ヲ否認セントスル」結社や運動を禁止するため違反者に懲役 10年以下の実刑を科した。さらに 28年の田中義一内閣は緊急勅令で法改正を行い,「国体変革」の罪には死刑をも適用することにした。さらに 41年には予防拘禁制の導入などの改正があり,最初7条だった治安維持法は 65条にもなった。この法の最初の適用は,25年 12月~26年4月の学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件だが,第2次世界大戦後の 45年 10月に GHQ指令で廃止されるまで,社会主義運動や労働運動はもちろん,思想,学問,言論,表現など一切の自由への過酷な弾圧の法的根拠として,処断者は数万人にも及んだ。
[出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | ]


【治安維持法に関する地方記事】 
治安維持法
1925年制定。天皇制や私有財産制を否定する運動を取り締まった。改定や拡大解釈を繰り返し、自由主義や反戦的言動も標的になった。28年に最高刑が死刑に、41年には予防拘禁制度ができた。作家の小林多喜二が拷問死するなど多くの犠牲者を出した。45年10月に廃止。
(2015-08-19 朝日新聞 朝刊 阪神・1地方)
[出典|朝日新聞掲載「キーワード」]

 
【デジタル大辞泉の解説】
ちあん‐いじほう〔‐ヰヂハフ〕〈治安維持法〉
国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰するために定められた法律。大正14年(1925)制定、昭和16年(1941)全面的に改正。共産主義活動を抑圧するなど、思想弾圧の手段として濫用された。同20年廃止。
[出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例 ]


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端的に言って、
この罪悪法のとどのつまりに、
「太平洋戦争」がありました。

父が生きていれば、
数え90歳の年になります。
父は佐世保で終戦の日を迎えました。

二年前の12月に急逝した父からずっとずっと以前に、
「敢闘録」と表紙に印字された黒表紙の「軍人日記」を預かったことがあります。
漢字交じりのカタカナで几帳面に書かれた、
戦時応召期の個人覚書き手帳でした。

教材の参考に少しだけ使わせてもらい、
一旦返して実家のどこかにあるはずなのですが、
いまだに見つかりません。

あのまま貰っておけばよかった・・・。

軍隊の中で一兵卒が、
どんな思いで日々を過ごしていたかを、
かろうじて許された範囲で丁寧に記していたのです。


戦争につながってゆくあらゆるものに反対します。


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DCIM3184


NPがクラス担任をしたことのある本校生Tさん姉妹の、
おばあさまにあたる奥村久美子さまから三年前にいただいた、
『ちんオモーニ』を再再再読しています。
(無理をお願いして、表紙見開きにサインもしていただいた本です。当ブログでも紹介記事がすでにあります。)

戦争の中の子どもたち・・・という副題が付いています。

200頁を越える、
大人向けの文体と、
ドキュメント内容です。





奥村さまから御著書に副えられた便箋の文章を、
あえて掲載させていただきます。

「拙いものをお読みいただきまことにありがとうございます。子どもをこのように育て、子どもにこのような経験をさせたお国に対し、未だに強い怒りを感じております。」


まったく「拙い」なんてとんでもない、
子どもたちや親たちと、
何よりも、
何も教えていない学ぼうともしない教員たち(自戒です。)と、
読書会を開いて、
逐次(ちくじ)読み合わせをしたいような名著だと確信しています。

巻末には松蔭女子学院大学教授で神戸大学名誉教授だった故・小島輝正*氏の解説推薦文があります。

初版(1983年8月15日付け)から34年が過ぎ去ろうとしています。
(NPがいただいたのは、初版の年の12月8日付け再版)


今、
審議されつつある法案が通ると、
例えばこのような本で、
「ほんとうのことを学ぶための読書会」も、
許されなくなるのではないですか?

「うそつきで厚顔無恥の国家」がまかり通るのではないですか?

もしそうではないと宣(のたま)うのならば・・・、
「歴史の悲惨」から、
何をガクシュウしたのですか、
私たちは。




*小島 輝正(こじま てるまさ、1920年1月27日 - 1987年5月5日)・・・
日本のフランス文学者、翻訳家、文芸評論家。
父の任地札幌に生まれる。本籍地東京。東京府立高等学校から、1941年東京帝国大学仏文科をくりあげ卒業。仏印で貿易の仕事をするが敗戦で46年帰国。49年洛陽書院を興すがうまく行かず、50年神戸大学文理学部講師、55年助教授。『新日本文学』などに寄稿。64年教養部教授となり1983年定年退官、松蔭女子学院大学教授。1980年大阪文学協会理事長となり大阪文学学校の運営に携わり、織田作之助賞を創設。84年フランス政府よりパルム・アカデミー勲章を授与される。没後、大阪文学学校は小島輝正賞を創設した。