Beethoven "Sonata Pathétique"- 2nd mvt Adagio cantabile(約5分30秒)を、
Piano Sonata No. 8, "Pathétique" (Complete:約17分) の中で特に聴き込んでみました。
映画『心が叫びたがってるんだ』実写版の公開から約1週間が経ち、
昨夜二年前の同名アニメ版(大ヒットした「ここさけ」)TV放映があり視聴しました。

その中で用いられているのが標題の第2楽章です。
「Over the Rainbow」(1939年のミュージカル 映画『オズの魔法使』でジュディ・ガーランドが歌った劇中歌「虹の彼方に」)と合わせて弾くという名シーンがあります。

「悲愴(第8番)」はハ短調作品13で、
以前にも当ブログで記しましたが、
「月光(第14番)」「熱情(第23番)」と共に「三大ピアノソナタ」のひとつです。


ハ短調という繋がりでシンクロニシティ・・・、
昨夜 因果ありクラシックピアノに詳しい知人に教えていただいて、
同じくベートーヴェンの「ピアノソナタ第5番」(約18~19分)も繰り返し聴いてみたのですが、
運命シンフォニー(交響曲第五番『運命』)も同様のハ短調で、
「とてもドラマティック」な「調性」のようです。

ドラマチック・・・劇的・・・こうした曲を聴き込むに相応しい土曜日の夜だったのでしょうね。


「心が叫びたがってるんだ」の「劇性」については、
まだ中島健人・芳根京子(事実上のW主演)さんの演技や音楽に触れていないので、
アニメの印象だけでは何とも言えません。

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DCIM4352
明けて7月30日は、谷崎忌(谷崎潤一郎*1965年7月30日没)です。

一作だけ中編小説『異端者の悲しみ』(1917年・大正6年7月)を読んで考察してみました。
自伝的な「私小説」ですが、
全三章から成り立っています。

けっして上記音楽を聴いていた所為(せい)では無くて、
作品文章の内容や流れなどから・・・。

それが、
やはり因果ありて、
「ロンドソナタ形式」(ベートーヴェン「悲愴」)と符合するように強く思えたのです。

勿論「ソナタ形式」(同ピアノソナタ第5番)とは異なっています。
ハ短調と共にある、
その劇的・劇性は無論、
文豪の谷崎潤一郎にも符合します。
「異端者」が彼自身であることは明確なので、
描かれた「異端者の悲しみ」もまた彼の「悲愴」に他なりません。


東京の下町(現・日本橋人形町)生まれである谷崎と、
関東大震災後の兵庫県灘区や東灘区(現・本山町や岡本)に転居した谷崎と、
さらに太平洋戦争後も岡山・京都・熱海と合わせて転居を重ねた谷崎と、
その生涯キャリアや思考的現実存在(実存)自体が、
「全三章」「全三楽章」になっているように思えてなりません。

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以下に厚かましいのですが、
Wikipediaから「大いなる援用」です。


ロンドソナタ形式(ロンドソナタけいしき)は、西洋音楽楽曲形式の一つ。大ロンド形式を発展させて、大ロンド形式の主部のBの調性を、ソナタ形式の第二主題と同じように第一主部では属調、平行調等に、再現主部では主調または同主調にしたものという。

大ロンド形式

ABACABA

ソナタ形式

提示部 展開部再現部
第一主題第二主題第一主題第二主題
主調属調、平行調等 主調主調、同主調

ロンドソナタ形式

第一主部展開部再現主部
ABACABA
主調属調、平行調等主調 主調主調、同主調主調




作家・谷崎潤一郎がクラシック音楽とりわけピアノ音楽に精通していたからというわけではなく、
(いたのかも知れません、『細雪』の松子描写シーン等に何度か用いられています。)
ジャンルを変えて(例えば小説や詩で)も、
「全体構成」がこのような形式で「音楽性」(「調性」や「劇性」を含む)を持つ、
・・・ということは大いにあり得るのだということです。
とりわけ「A」の力感に加えて「C」という展開部の入り方と「A・B」⇒「A・B'」後の「A」に着目。


・・・そうです。
これもまた「構造主義」のマジック(魔術)なのです。

またしても今朝、
そのマジックに自(おの)ずからかかってしまいました。
一旦そう思い込むと、
そうとしか考えられなくなってしまいます・・・。

今夜さらに繋がってゆく音楽を聴きながら再考察してみます。


*谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)・・・
1886年(明治19年)生まれ。東京市日本橋区蛎殻町2丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町1丁目7番地)に誕生。父・谷崎倉五郎、母・関の長男として育つ。
1889年(明治22年) 父の経営する日本点灯会社が経営不振のために売却される。
1890年(明治23年) 父、米穀の仲買人をはじめる。弟・精二生まれる。
1892年(明治25年) 日本橋阪本小学校尋常科へ入学(一年繰上げの変則入学)。お坊ちゃん育ちの内気な性格のため、乳母の付添い無しでは学校に行けない。
1893年(明治26年) 出席日数不足のためもう一度一年生をやり直し、首席で進級する。生涯の友人・笹沼源之助(日本初の「高級」中華料理店倶楽部偕楽園の御曹司)と知り合う。
1894年(明治27年) 6月20日、明治東京地震に自宅で被災。地震恐怖症の原因(「九月一日」前夜のこと』で恐怖症と告白)。
1896年(明治29年) 母と歌舞伎『義経千本桜』を観劇し、生涯にわたる影響を受ける。
1897年(明治30年) 同小学校尋常科卒業、高等科に進む。稲葉清吉先生の影響で文学に目覚める。
1898年(明治31年) 先輩や級友と回覧雑誌『学生倶楽部』を行う。
1899年(明治32年) 京橋区築地明石町の欧文正鴻学館(通称サンマー塾)に通い英語を習う。日本橋亀嶋町の貫輪秋香塾で漢文の素読を受ける。
1901年(明治34年) 同高等科卒業。このころ家産傾き、奉公に出されるはずだったが、才能を惜しむ稲葉先生らの援助により東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)へ進む。
〈中略〉
太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている。
同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。
[Wikipediaより編集]