太田くんとは、
以前「構造主義」と「(社会)構築主義」についての話を展開したことがあり、
それも当ブログに記されています。
(カテゴリー「構造主義」にお越しください。)

ポストモダンと繋がる構造主義の文化人類学者、
レヴィ・ストロースの話題はこの日も出ました。
レヴィ・ストロースが分け入ったのはアマゾンであるが、
実際には「机上の学者」であったとのこと・・・意外の感があります。

太田研究員の管轄責任コーナーでの彼の拘り・蘊蓄も相当のものでした。
(勿論それ以外の全体にわたってそうです。)

「みんぱく」(大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館)は、
驚くほど写真撮影フリー、
手で触れて実体感できる、
一日過ごしても飽きない、
楽しく深く学べるリンク、
などなどが他の博物館と大いに異なっているように見受けられます。
初代館長・梅棹忠夫*氏は京都大学探検学部卒だったと言っても過言では無い大人物です。
(下記Wikiで知りましたが「漢字廃止論者」だったんですね…「情報カード」も有名です。)

太田研究員もまたこれからさらに羽搏いてゆくでしょう・・・。
すでにニューヨークなのかな・・・世界🗺
をまた、これからも知りたいと思えました。

世界を知ることで日本が分かる。
日本が分かることで自分を知る。



そんな大きな、
でも小さなことに、
もっともっと拘りたい・・・、
もう一度使いますが「優雅最上」の気持ちにさせてもらいました。

大阪府高槻市にある私立高槻中学高等学校で、
NPは太田くんと出会いました。

今回、
NPの知人男性ひとりを彼に紹介したことで、
そのひとりが大いに(でも小さく)世界を知り日本が分かり、
何よりも自分を知ってくれたら望外の喜びになります。

マイブログの画像依存を抑えて、
文章の質を高めてゆこうと考えているのですが・・・、
今回ばかりは最下方に心をとらえた幾カットかを載せます。

説明無しです、
実際に行ってみて下さい「みんぱく」。
最後のひとコマは、
一般には見ることの出来ない太田研究室の「引っ越し後片付かないまま」の様子です。


NPブログへ、
今日もお越しいただいて有り難うございます。


[以下はWikipediaより編集]
*梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)・・・
日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授。 理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長。
日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。

代表作『文明の生態史観』の他、数理生態学の先駆者(オタマジャクシの群れ形成の数理)でもあり、湯川秀樹門下の寺本英が展開した。さらに、宗教のウィルス説をとなえ、思想・概念の伝播、精神形成を論じた。その後も、宗教ウイルス説を展開し、後継研究もあり一定の影響を及ぼす。宗教ウイルス説は、文明要素(技術・思想・制度)が選択により遷移していくと言う遷移理論を柱にする文明の生態史観の一例であり、基礎のひとつである。

青年期より登山と探検に精を出し、数多くのフィールドワークの経験から、B6カードを使った情報整理法を考案、その方法をまとめた『知的生産の技術』はベストセラーになった。また、モンゴルにフィールドワークに出かけた直後に原因不明の視力障害を患い、64歳で両目とも失明するが、失明後、それ以前よりも多数の著作を残した。
1936年、京都一中(現・京都府立洛北高等学校)から4年修了(飛び級)で第三高等学校に入学。三高時代から山岳部の活動に熱中して学業を放棄し、2年連続で留年して退学処分を受けるも、後輩や同級生からの嘆願運動で復学を認められる。京都帝国大学理学部動物学科在学中には今西錦司を団長、森下正明を副団長とする中国北部『大興安嶺探検隊』(新版・朝日文庫 1992年)などの探検に参加活躍をした。モンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』(中公叢書、のち中公文庫、中公クラシックス)は、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み、大きな反響を呼び論争を巻き起こした。この主著は後の一連の文明学におけるユニークな実績の嚆矢となった。

フィールドワークや京大人文研での経験から著した『知的生産の技術』(岩波新書)はロングセラーとなり、同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」という名で商品化された。1963年には『情報産業論』を発表。アルビン・トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。「情報産業」という言葉の名づけ親でもある。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(中公叢書、のち文庫)にまとめられている。
1957年「第一次主婦論争」に「女と文明」(1988年に中公叢書)を書いて参戦し、「妻無用論」を唱えた。 

国立民族学博物館の設立に尽力し、1974年初代館長に就任した。1986年3月12日に原因不明の失明をした。それ以降の著述は口述筆記による。闘病記『夜はまだあけぬか』に詳しい。作家司馬遼太郎とは、モンゴル研究のつながりで長年の友人であった。
日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長でもある。古くから漢字廃止論を唱えていた。また、エスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員である。

主な著作(1990年初頭まで)は、『梅棹忠夫著作集』(全22巻、中央公論社)に収録。
イスラームに対しては、人と神がマンツーマンで接することができる宗教として、共感を抱いている。

2010年7月3日、大阪府吹田市の自宅で老衰により没した。90歳没。
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