早朝6時からの短歌に引き続いて、
NHK俳句第三日曜日、
星野高志さんの選句を視聴しています。
句評も懸命に拝聴しています。

標題のNP句(どちらかと言うと川柳:なく⇒無く・鳴く)において、
「ホトトギス」*は「伝統俳句」を指します。
季語としての「杜鵑」は「夏」(初夏)になります。


「逆説」とは、
基本的に「矛盾を孕んだ状態」と解されるのですが、
普通はそう考えないような言い方(表現)の中に、
「意外」「驚愕」「皮肉」「反論」「批判」といったニュアンスが、
時として多少大小込められています。

それらを考察する際に欠かせないのは、
「原型」つまり「普通」がどうであったかということと、
そこからの「飛躍」「離脱」「段差」の程度に対する意識だと思われます。


初心俳句集団の執事長(組長)として、
申し分けない情けない限りなのですが、
「逆説的」な「発見」が感じられない。
(「原型」認識の学習にはなります。)


これはとてもたいそう大きいことです。
またガクシュウを重ねるべき課題です。
もちろん自分自身の鑑賞力の問題です。

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*ホトトギス(漢字)・・・
20種類以上あるそうです。(「Yahoo!知恵袋・回答」参照)
〈杜鵑〉・〈時鳥〉・〈子規〉・〈不如帰〉・〈杜宇〉・〈蜀魂〉・〈田鵑〉
〈霍公鳥〉・〈霍公〉・〈郭公〉・〈杜魂〉・〈布谷〉・〈無常鳥〉・〈黄昏鳥〉・
〈夕影鳥〉・〈菖蒲鳥〉・〈初時鳥〉・〈山時鳥〉・〈沓手鳥〉・〈山郭公〉など。

*ホトトギス (雑誌)・・・[Wikipediaより抜粋]
『ホトトギス』は、合資会社ホトトギス社が発行する俳句雑誌。1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した。夏目漱石が小説『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。明治期には総合文芸誌として、大正・昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。
【明治期】
1897年(明治30年)1月15日に海南新聞社員柳原極堂が松山で創刊。雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだもので、創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。子規、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが選者であった。
1898年(明治31年)10月 場所を東京に移して虚子が継承する。
1901年(明治34年)10月 雑誌名を『ホトヽギス』とする。
1902年(明治35年)9月19日 子規没。
1904年(明治37年)10月 岡本癖三酔選者となる。
1905年(明治38年)1月 漱石『吾輩は猫である』連載開始、大好評を博す。10月 寺田寅彦『団栗』掲載。このころより虚子小説に傾倒、碧梧桐新傾向色を強める。
1906年(明治39年)1月 伊藤左千夫『野菊の墓』。4月 漱石『坊っちゃん』。5月 鈴木三重吉『千鳥』。8月より碧梧桐第一回全国行脚。9月 小泉八雲『海のほとり』。
1907年(明治40年)1月 漱石『野分』。2月 野上八重子(弥生子)『縁』。11月 長塚節『佐渡が島』。このころ浅井忠、竹久夢二が挿絵を描いている。
1908年(明治41年)10月 漱石『文鳥』(ただし他誌からの転載)、松根東洋城選者となる。
1909年(明治42年)から小宮豊隆、安倍能成らの批評が連載される。4月より碧梧桐第二回全国行脚。7月をもって雑詠欄廃止。
1910年(明治43年)4、6月 イプセン『社会の柱』。9月号発禁処分。
1911年(明治44年)4月 阿部次郎『狐火』、森田草平『御殿女中』。10月 雑誌名を『ホトトギス』とする。碧梧桐編集より離れる。
1912年(明治45年)7月 虚子選雑詠欄復活。川端龍子挿絵を描くようになる。
【現況】
現在のホトトギス社主宰は高浜虚子の曽孫である稲畑廣太郎が務めている。1979年から2013年まで主宰を務めた稲畑汀子はその母で高浜虚子の孫。
ホトトギス社はホトトギス誌以外に書籍も編集・発行しているが、発売元はホトトギス社のものと他の版元のものがある。例えば歳時記は、虚子編「新歳時記」やホトトギス編「ホトトギス新歳時記」を三省堂が発売している。虚子編「新歳時記」は基本的に高濱虚子が編集したものだが、ホトトギス編「ホトトギス新歳時記」は、全国の俳人からホトトギス誌に寄せられた句を元に編集したもの。
ホトトギス社は長年、旧・丸ビルに入居していたが、丸ビルの建て替えのため、三菱ビルに移った。