( 下記の文章は当ブログ2018.1.17付け
「忘れてはいけないこと」をリライト
したものです… 5時46分に向かい関連
TV番組を流し続けながら「忘れない」)


27年前
大阪府茨木市の賃貸バブルマンション2階に住んでいました。
阪急京都線の急行停車駅である茨木市駅から徒歩5分程度の至便な所でした。

大阪北部の茨木市は震度4強もしくは5弱だったと思うのですが、
朝5時45分過ぎに激しい揺れで目が覚めました。

当時は今のように朝型では無かったのでパジャマ姿のまま、
ただごとではないような気もしましたが、
寝ぼけ眼で何が起こったのかぼんやり考え始めました。

リビングでスチール製の本棚が一つ倒れ、
まだ幼かった娘が飼っていた金魚のガラス水槽を直撃し、
水槽はエアポンプ含めて破壊され水は飛び散り、
破片と共に十数匹の大きく育っていた夜店の金魚たちは床に投げ出されました。

同じくリビングキッチンの食器棚の扉が開いて、
数枚の皿が飛び出して落下し、
床に落ちて割れました。

被害はその程度でした。
しかしピチピチと跳ねている金魚を拾い集め、
浴槽の風呂桶に入れて水道の水を出そうとしても出ませんでした。
キッチンの水道・ガスも止まっていました。

不思議なもので我が家の最優先事項は金魚を救ってやることでした。
急いで着替えてすぐ近くのコンビニに走りました。
6時前ですが交差点横断歩道の信号は赤の点滅を続けたまま、
比較的近い所で救急車の走る音が聞こえていました。

もうコンビニのレジには列が出来ていました。
ミネラルウォーターの水は既に売り切れで、
やむを得ず麦茶の大きなペットボトルを二本、
ほとんど無意識で数個のおにぎりと共に買い込んで部屋に戻りました。

麦茶を惜しみなく風呂桶に注ぐと、
生き残った金魚たちは泳ぎ始めました。
麦茶でも生きられるのかな…と思いました。
そして6時を過ぎた頃にようやくTVを点けました。


信じられないようなニュース光景が映し出され、
速報と被害状況が断続的に着々と更新され続けました。
携帯電話はまだ持っていなかったので、
メールや連絡などがすぐに飛び交う状況には無く、
阪神・阪急・JR共に京阪神全線不通という画面を呆然と見つめ、
ああ仕事に行けないんだ…と思いました。

京都方面への急行の次の停車駅・高槻市から徒歩通勤できる、
中高一貫の男子進学校に教員職を得ていました。

阪急電車の京都線が動き出したのは、
その日の午後遅くになってからのように記憶しています。
職員室に駆けつけて、
数人の教員と会いましたが、
とりあえず休校ですね…としかお互いに言えませんでした。
職員室の中も色んなものが散乱していました。

翌日になっても休校のまま臨時の職員会議だけがあり、
生徒の安否確認が始まりました。
阪急・JR共に神戸・芦屋・西宮・尼崎方面から通学している生徒も多かったのです。

翌々日午後になって、
パラパラと登校し始める生徒もいる中、
どうしても音信の取れない西宮在住のクラス生徒一人を訪ね、
もうひとりの学年団同僚の男性教員とともに自宅周辺へ探しに行きました。

阪神電車・今津駅の南側でした。
阪神・阪急は止まったままで、
JRが何とか尼崎まで運行を始めていたので、
そこで降りて歩き始めました。
テレビで見るのと同じ以上の見たことのない景色が広がっていました。

ごく普通に、
家やビルが倒れて壊れているのです。

後日の新聞・雑誌記事…、
将棋の谷川浩司王将が神戸市東灘区の実家全壊で、
「普通の景色が異常に思えるという非常時」について語っていらっしゃいました。
「将棋を指せるのが嬉しい。この一言に尽きた。」とも。
彼は折しも王将戦に臨んでいて、
羽生善治六冠との1局目と2局目の間に震災は起こったのです。
最終的に4勝3敗で王将位を守ったことも付け足しておきます。
最強の難敵に対して、
神戸のために負けられなかったのでしょう。

黙々と歩いて、
西宮に入りました。

探し回って、
ひとつの避難所の人混みの中で、
彼の元気そうな姿を見つけた時は本当に嬉しかったです。

でもその西宮市南部の避難所では救援物資が滞って、
むしろ余り始めていました。
同じようなものばかりが届くのだと、
そしてそれは、
もうこれ以上西へは届けにくいからだとのことでした。

もうそれ以上西へはとても行けないことも知りました。
阪神高速神戸線が走行中の車と共にちぎれ落ちた辺りの、
手前までが精一杯でした。

他クラスでもう一人芦屋で消息不明の生徒がいたのですが、
彼は確認の取れた別の生徒と、
無事だという連絡がついたということも伝わっていたので、
もう西へは行かないことにしました。
危険な匂いがしたことも憶えています。
これは震災特有の臭いというよりも生命の危険を感じさせるようなものです。

実際に余震も続いていて、
前震・本震・余震という言葉関係も初めて知りました。
あれが前震だったらどうなるんだろうと…。

阪神今津から…午後遅くになって、
ようやく東方面へは動き出したと言われる阪急の西宮北口まで歩きましたが、
屋台がいくつか出ていて、
これも信じられない光景の一つですが、
異常な高値で食べ物などを売りさばいていました。

例えば普通のたこ焼き8個が800円でした。

後に東野圭吾さんが『幻夜』の中で冷徹に悲惨を描き、
宮本輝さんが『人間の幸福』後書きで怒りを以て述べられたように、
それはそれは非人間的な時間と空間がそこかしこにありました。

誰しもがこの国の政治家はいったい何をやっているのかと思った…のかどうか…。

これも後になって、
首相官邸での非常時の様子が呆れ果てるような印象で伝わってきて、
あるいは兵庫県と神戸市の救援連携態勢や自衛隊出動の遅れなども無念のうちに、
ため息を誘ったものです。

何も出来ないのは自分も同じだ…とも思いました。
このままではいけないのだ…とも。


今朝のWikipediaでは、
死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名・・・となっています。

その犠牲者の中には…、
これも後で聞いたことですが、
そのずっと以前に大学院から非常勤で勤めていたことのある神戸の女子高校の在校生徒さんや、
その当時勤めていた男子校での学年団卒業生のお母さんも含まれていました。

まだまだ遠かったですね…、
もっともっと身近なところで、
涙も涸れ魂が粉々になるくらいに悲しい思いをされたかたは沢山いると思われます。


神戸は自分にとっては、
とてもとても懐かしい慕わしいところです。
4年間通勤したその地に戻ってきて、
来月末で五年になります。


今日も購読している神戸新聞を、
隅々までよく読んで、
追悼の思いを持ちたいと考えています。

そして、
無事に生かされていることにも、
感謝の思いを持ちます。

何が出来たか、
何が出来るか、
それを考えて実践します。

忘れたいことは沢山ありますが、
忘れてはいけないこともあります。

忘れない。

あの時被災して神戸市内の自宅が全壊しながら、
潰れた家の下敷きになっている近所の人たちを、
必死懸命の思いで助け続けた野球部の生徒Kくんは今、
西宮市の病院で医師になって人の命を救い続けています。

あの時の金魚は、
麦茶の中でも無事に生き長らえて、
オウム地下鉄サリン事件の起こった、
その年の春には近くの小学校内の池へと引き取ってもらいました。


あれから27年後の5時46分が来ます、
映画『西北ショパン』で主人公の、
県立西宮高校 ピアニスト男子生徒の、
お母さんが亡くなった時刻です。

『オリックスはなぜ優勝できたのか』
(喜瀬雅則:光文社新書2021.12.30初刊)を読んでいます、
あの年もオリックス・ブルーウェイブは負けられなかったのです。

自分になにが出来るかを考えること実践することを
せめてこの日には忘れない。


【忘れない震災いのちへのいのり】