2016年2月27日の当ブログ記事プラスで
今、ぜひ読んでいただきたいと考えます。


あの頃も、正しかったのでしょうか?

戦争も宗教も教育も、色んな善意の営為も。


ゲーデルの不完全性定理に関する
三回目で締め括りになっています。
1.2も合わせてお読みいただけると
よいのですが以下の文章だけでも
相当長いものの…分かりやすい…?
(分かりやすさだけが大切な現実?)


最下方※※※※※部以降が本日分です。


《ゲーデルの不完全性定理③》


ゲーデルの不完全性定理について、
WIKIの言葉をさらに分かりやすくしてゆきます。
数学というよりも論理学ですね。

①第1不完全性定理
「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」

②第2不完全性定理
「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」

数学的には「ある矛盾のない理論体系」とは「公理系」ということです。
数学には、前回お伝えしたように、「大前提」としなければ次に進めないようなことが必ず決まっています。
例えば自然数で、1の次は2とする・・・などでしたね。

つまり上記の定理①②をさらに換言すれば・・・、
①大前提とする「正しいこと」の中に、「正しいとも正しくないとも言えないことが必ずある」。
②大前提で「正しい」としても、その中では「自らが正しいことを証明できない」。
・・・ということですね。


これは有名な哲学者エピメニデスの「クレタ島人のパラドクス」
(当ブログ記事「逆説」カテゴリー参照)と似ています。

「すべてのクレタ島人は嘘つきである」と、
あるクレタ島人が言ったというお話です。 

もしこの言葉が「真実」であればクレタ島人は「嘘つきである」ことになるが、
そのクレタ島人は「嘘つきなのに真実を言った」ことになってしまい、
矛盾している。
一方でこの言葉が「嘘」だとすればクレタ島人は「正直者である」ことになるが、
そのクレタ島人は「正直者なのに嘘を言った」ことになってしまい、
矛盾している。

クレタ島人の言葉が真実でも嘘でも、
どちらも矛盾していることになる。

これは「自分自身について真偽を確かめようとするときに発生してしまうパラドクス」であることから、
一般的に「自己言及のパラドックス」と言われています。


「私は正直者です」と言った場合を考えてみます。
この言葉が「真実」だった場合は正直者が「自分は正直者だ」と真実を言ったことになるので、
問題なく成立するわけですが、
この言葉が「嘘」だった場合でも嘘つきが「自分は正直者だ」と嘘を言ったことになるので、
これも問題なく成立してしまうのです。

「私は正直者です」という命題は、
真偽どちらでも成り立ってしまい、
真とも偽とも言えないということです。


ゲーデルの不完全性定理の意義は、
「自己言及パラドクス」が数学においても発生することを証明したということです。


1930年に数学界の巨匠ダフィット・ヒルベルトは、
「数学理論には矛盾は一切無く、どんな問題でも真偽の判定が可能であること」
を完全証明しようとして全数学者に提唱しました。
「ヒルベルトプログラム」と呼ばれる、
数学全体の完全性と無矛盾性論理的な完成を目指す一大プロジェクトとして、
当時世界中から注目を集めたそうです。

そこへ、若き数学者クルト・ゲーデルが現れ、
「数学理論は不完全であり決して完全には成り得ない」ことを、
数学的に証明してしまったのです。


証明自体の内容については難しいのでワ~プ・・・、
結論として、
あるネット記事(「哲学的な何か、あと数学とか」:このサイトでは『14歳からの哲学入門』を紹介していますね。)からさらに援用編集して換言表現します。

①一見すると完全無欠に見える数学理論の中にも、
「真とも偽とも決められない命題」「証明も反証もできない命題」が含まれている。

②数学理論において証明不能な命題を含むということは、
「正しいとも間違っているとも言えない不明な領域」が数学理論の中にあるということなのだから、
数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明することは不可能である。


この不完全性定理は、
数学だけではなく哲学・科学・論理学・法律学・経済学など理論体系一般全てに適用できるため、
「論理的に突き詰めていけば、どんな問題についても真偽の判定ができ、それを積み重ねていけば、いつかは真理に辿り着けると信じていた人に大きな衝撃を与えた(上記ネット記事)。」のです。


「ゲーデル・ショック」です。

 
これは、
「ヘーゲル弁証法」による正反合の無限連鎖で、 
自らの発展進化を信じて疑わなかった「近代」自体の、
破綻・敗北を予告していたとも言えるのではないでしょうか。


・・・とすれば、
ここからポスト・モダンが忍びやかに始まったと言えるのかも知れませんね。

1930(昭和5)年・・・、
日本は戦争への足がかりを築き始め(与党民政党の衆議院選挙圧勝)、
世界は日・英・米・仏・伊5か国がロンドン海軍軍縮条約に調印。


正しさの中では自らの正しさを証明できない。


日々思い当たります。
例えば生徒に対する自らの言葉・態度ですね。

猛省です。


正しさの中では正しさを証明できないことを、
謙虚に自問できるような、
潔い一日でありますように・・・。

(wwだから、どんな一日やねんww)


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
 

正しさの中では正しさを証明できない
まして
過ちの中では過ちを証明する術もなく
戦争は
底なし沼のように人の命を軽んじ続け


メロスは激怒した(『走れメロス』冒頭)
なんて
あたりまえの正しさはもはや笑い種に…
きっと
人の命も問題でないのだ(同上 終盤)
の意味
それは怖ろしく擦り替えられています。


NPはまだ諦めずに正しいか過っているか
どちらでもないのか… 論理も物語も説く
国語&教育の現場にしがみついています。


【過ちの中で寒露の畢りゆく】🍃
   

【正しさの中で寒露の畢りゆく】


この二句が等価にならないように祈る
インフルエンザ職場接種の日の朝です
… 大事(?)をとって早朝ジョグは休止。


🍃畢(おわ)る・・・
物事が尽きておしまいになる。 すっかり済む。