「語るに落ちる論理」という標題の時にいただいた某コメントと関連しています。合わせて御一読を。
〈原稿落ち〉    
                         和賀英良


 私の復讐。彼の復讐。そして、亡き妻の復讐。

 私は花瓶を壁に投げつけた。

 

 

 妻は記憶を消したがっていた。よく私のような男と結婚したものだと思う。

 結婚当時、私は幸福の絶頂にいると思った。彼女もそうなのだろうと思い込んで疑わなかったが、あるいはそれは私の願望だったのだろう。今の私などよりはるかに辛い経験をした彼女が、そう簡単に幸せを感じられるわけもなかったのだ。

 だんだんと妻が信じられなくなった。私といることに不満を感じている。そう思うと、どうしようもなく腹が立った。些細なことで怒鳴り散らし、愚かな女と罵った。腹の中には私の子がいた。 私は今、その報いを受けているのだろう。

 食事中、母が言う。「この子の勉強も少しくらい見てあげなさい」

 私は言葉通り、食後の彼の勉強を見てやる。歪んだ人間を見ていると国語だけは異様に出来るらしい。部屋に入った途端、「これ、読んでみなよ」と挑戦的な笑みとともにどこからか引っ張り出した問題文を差し出されたことがある。

「これがどうかしたのかい?」

「僕が嫌いかい?」

「何故そんなことを訊くんだ?」

「ちゃんと読んでないだろ」

「どういう関係がある?」

「僕を理解する気なんかさらさらないんだろ」

「そんなことはない」

「じゃあどうしてこれを読ませたか当ててみろよ」

 文章に目を落とす。内容が頭に入ってこなかった。

 私は全ての記憶を消したくなった。この際全てを忘れてしまえば、何を言われようと楽になるのに。

「バカだなあ……。これ、あんただろ」

 頭の中で〝知るか〟と呟く。相手が妻なら口にしていただろう。

 罵りを胎教として育った彼の復讐だった。

 妻は全ての記憶を消したがった。幼い頃のものも、私といた間のものも。母は妻を支えようとはしなかった。妻を支えたのはお腹の子だけであった。

 

 子が生まれると、彼女の支えは潰えてしまった。体内に子供がいる間だけ、彼女の身体は不可侵だった。外に出てしまえば私の分身にすぎない。寝ている彼女の手が、隣の赤子の首に五ミリと離れない位置にあったのを、母は何度も見ていた。無論、私にはそんなことを教えもしない。結果的にはそれでよかった。教えられていたら何をしていたか分からない。

 いや、本当に良かったのかと問われれば、最後の最後には同じことだったと言わざるをえない。私が刑務所に入らずにすんだだけだ。むしろ入っていた方が楽だったかもしれないと思う羽目になるのだが。

 母が妻を見舞った晩、彼女は病院をフラリと出た。

 急患を運ぶ救急車は、ちょうど交差点を突っ切って病院へと走っていた。

 女の身体は突然現れたそうだ。

 花瓶が砕け散る。一瞬にしてただの破片に姿を変える。

 私が投げたのか。あるいは花瓶は自分の意志で砕けたのか。

 壁に傷が入った。救急車のバンパーがへこんだ。

 妻の記憶は消えた。幼い頃のものも、私といた間のものも。何もかも。自分を消すことでしか、記憶を消すことは出来なかった。そうしてようやく、彼女の願いは叶ったのだ。

 そしてその出来事は、私の記憶に消してしまいたい事実を彫りつけていった。時折私は、花瓶を割るときのような衝動を持って包丁を持ち出す。その衝動が自分に向いていることをひたすら願って、それをしまう。単純な動作が全てを救うこともある。

 だから、私の彼への愛は本物だ。それを愛と呼ぶならば。

 

                                      ─続─