NPブログ - Leitmotiv ~言葉・論理・主題連鎖への旅~

カテゴリ: 夏目漱石


IMG_20200518_064200IMG_20200518_064329前記事の解答は…
森鷗外と夏目漱石。


岩波書店の
新書サイズ
選集と全集
1979*1981
年刊行版…。

画像四景で
二人共通の
詩の収録本
そう二人は
詩人として
も作品を残
した作家…。

短歌と俳句
同じ素材で
「鐘を撞く」。


大鐘をヤンキイ衝けりその音は
    をかしかれども大きなる音
(鷗外・T11)

ごんと鳴る鐘をつきけり春の暮
(漱石・M32)


すべてに対照的な一首一句です。


鷗外は60歳最晩年の「奈良五十首」
からで…ヤンキイは下記Wikipedia*
にもあるように随伴したイギリス
皇太子御一行で…驚きの斬新さあり
大・大・音・音  惜しげもなく重複
大きな時代の変わり目の予感です。


漱石は31歳~32歳の熊本での俳句
結社**主宰になったばかり長女筆子
誕生の年…イギリス留学や作家活動
以前の句で…平明かつ手練れ感あり
オノマトペ(ごん)・切れ字(けり)・
季語(春の暮)  ことごとくの月並み。




【イギリスに繋がる作家偲ぶ初夏】



[以下はWikipediaから抜粋]

* 鷗外の大正11年(1922年)
4月 - イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。途中、いくどか病臥する。
6月29日 - 萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。
7月6日 - 友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。
7月9日 - 午前7時死去。弘福寺(東京・向島)に埋葬される(翌年に三鷹の禅林寺へ)。


** 漱石の明治32年(1899年)
紫溟吟社(しめいぎんしゃ)は、明治時代に熊本県熊本市を拠点に活動した俳句結社 。1898年(明治31年)10月に、当時正岡子規、高浜虚子らと共に有力な俳人の一人で、第五高等学校教授を務めていた夏目漱石を主宰として、五高の学生であった寺田寅彦らの学生たちが興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。
1899年(明治32年)5月 - 長女・筆子誕生。
1900年(明治33年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。




筑摩書房の高2用「精選 現代文B 改訂版」教科書は
次の箇所で終わっています

朝日新聞連載「四十八」回目の末尾
【青空文庫より】

・・・・・・・・・・・・

手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方(かたづけかた)も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫(わび)をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
 私は顫(ふる)える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆(みん)なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖に迸(ほとば)っている血潮を始めて見たのです。


(これに続く「四十九」
の冒頭は以下のように
なっています…無掲載)


四十九


「私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔が一目ひとめ見たかったのです。しかし俯伏しになっている彼の顔を、こうして下から覗き込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。慄(ぞっ)としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今触った冷たい耳と、平生に変らない五分刈の濃い髪の毛を少時(しばらく)眺めていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺激して起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。
 私は何の分別もなくまた私の室(へや)に帰りました。そうして八畳の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。私はどうかしなければならないと思いました。同時にもうどうする事もできないのだと思いました。座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。檻の中へ入れられた熊のような態度で。
 私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を遮(さえぎ)ります。奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かす事は、とてもできないという強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。
 私はその間に自分の室の洋燈ランプを点けました。それから時計を折々見ました。その時の時計ほど埒(らち)の明かない遅いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかった事だけは明らかです。ぐるぐる廻りながら、その夜明を待ち焦(こが)れた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。

・・・・・・・・・・・・

もう先週末になり
ますが一クラスに
この続きの部分を
かなり長くそして
『こころ』全体の
連載末尾の数回分
を朗読しました📖


思いが込み上げてきて
まともに読めません(涙)

この作品はやはり凄い
そう思えて体が「顫える」

参りました~今までに
何度かこの現象はあった

浅田次郎『蟬の声』や
湯本香樹実『ポプラの秋』

生徒諸君はそのたびに
困ったもんだ…と退いた

担当者だけの自己満足
という図柄だったのです

おそらくは…しかし…
わずかでも一緒に感動を

そうです昨今のそれと
明らかに一線を画する…

わずか数名のために…
自分は朗読できて幸せで

今でもよかったと一人
感じているのです本当に

もう教員生活の授業の
その中で…「こころ」を

こんなふうに読む機会
それは二度とないような

そんな気持ちが強くて
受験学習とは真逆の地平


そこに今 NPはいます
記憶して下さい。私は…

(続きます💦)

DSC_3941NP当初(最初に読んだ時)
これはてっきり親友子規を
悼んだ一句…と思いました
それならば明治35年のはず

明治43年の作だったのです

その場にいる事の叶わない
あの人だからこその絶唱に
思わず胸が熱くなりますね

恋しい思いを抱きながらも
結ばれなかった大塚楠緒子*
彼女の死に手向けた一句と
調べてようやく知りました


大塚楠緒子は東京控訴院長
大塚正男の長女であった人

漱石は学生時代に大塚家の
婿養子になる可能性もあり
ましたが…『それから』の
代助のように若き義侠心で
好きな人を友人に譲った後
恋心を抱き続けていたと…
(「Chikata.NET」参照)


NHKドラマ「夏目漱石の妻」
(’16年9月24日~毎土曜4回)
では大塚楠緒子を女優 壇蜜
さんが好演していましたね

NPには葉月里緒奈さんとの
イメージがあったのですが
こちらは「こころ」’94年の
テレビ東京のドラマ番組で
お嬢さんの役のかたでした
ちなみにKは小宮と名乗り
香川照之さんが演じました

適当なうろ覚えを正すには
最後のチャンスと思います
「最後のこころ」のつもり

今日は全クラス・センター
試験の2008年本試験小説の
漱石「彼岸過迄」の問題を
他評論問題とセットで解き
自己採点申告し来週解説へ


画像は快速最寄り駅にある
いつもの花ギャラリーです
小原流の菊ふさわしい時季

ぐずついた天候が続きます
回復をひたすら中秋に向け
祈り願っている土曜の早朝


今日も読者の皆さんに
菊全般の花言葉である
「高貴・高尚・高潔」
豊かにありますように



菊三種過去現在と未来見る
(NP宏)





*大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年8月9日 - 1910年11月9日)・・・
明治末に活躍した歌人、作家。夫は美学者の大塚保治(入婿)。本名:大塚久寿雄。別名:久寿雄子・楠緒・楠緒子。
東京女子師範附属女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業後、佐佐木弘綱・信綱の元で和歌を学んだ。1895年、小屋保治と結婚(保治は大塚姓になった)。夫が留学中、英語を明治女学校で学ぶほか、絵画を橋本雅邦に師事、ピアノや料理なども学んだ。
雑誌『太陽』1905年1月号に日露戦争に出征した夫の無事を祈る妻の心情を歌った「お百度詣」を発表した。また万朝報や朝日新聞に連載小説を発表するほか、ゴーリキー、メーテルリンクなどの翻訳や、絵画、ピアノなど多才であり、才色兼備と言われた。
1910年、流感に肋膜炎を併発し、娘3人と息子を残し、大磯の別荘で死去。楠緒子の死後、夫を通じて交流のあった夏目漱石は「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という句を詠んだ(『思ひ出す事など』七)。密かに漱石が恋した女性と記述される事もある。

DSC_3884教材研究と言えるのかどうか…
2017年刊行の漱石研究の対談集
こんなに面白いと今回分かって
ここまで生徒に語ってよいのか
思案しながら「こころ」購読中

教員生活「最後のこころ」かな
そんな気持ちで説き始めました
ありがとうNPの暴走国語への
お付き合いもあと一年半否半年
キミたちに会えてよかったです


「覚悟、――覚悟ならないこともない」
Kの独言ひとりごとのような呟き…
やはりこうした覚悟を以て人生
相渉あいわたるべきですよね本当
取り敢えず吾輩は教員である



文庫本・新書版など合わせて
六冊の「こころ」があること
これは持ち過ぎなので重い…
(^^)/ ふさわしい人を探して
「心の旅」続けてゆきます


となりのこ・こ・ろ こ・こ・ろ🎵
(「となりのトトロ」の節で)

DSC_3889



「花火」「夢」「サラバンド」、
それに、
4小曲から成る「ベルガマスク組曲」(3曲目が「月の光」)などを、
ポリーニ・羽田健太郎・岸美奈子・高木早苗のPf 他で聴き通しています。

ドビュッシーのことが何ら分かるわけでも、
聴きこなせるわけでもないのですが、
ドビュッシーを聴きたかったのです。
(あえて本日はWikiの下方援用はしませんが参照し以下にNPオリジナル記事化しています。)


クロード・アシル・ドビュッシー(フランス:1862年8月22日 - 1918年3 月25日)は、
多彩多才な「伝統から外れた音階・半音階」の作曲家として知られ、
「印象派」(本人否定)とも「象徴派」とも呼ばれています。

NPは「このミス大賞」(第8回このミステリーがすごい!大賞)、
中山七里さんの『さよならドビュッシー』から入りました。
ピアニスト探偵・岬洋介(映画では清塚信也さん)の指摘した、
「あっと驚く真犯人」は音楽モティーフを越えて心に残っています。
ピアノをどうやら弾けないらしい作者のピアノ曲への斬り込み方は別種の勇気を与えてくれます。


マウリツィオ・ポリーニはイタリア・ミラノ出身のピアニストで高齢ですが、
超絶技巧の「完璧」「機械的」「冷たいピアニズム」などのキャッチコピーで知られる巨匠です。
近年来日した時に、その演奏力には讃嘆と落胆とが両者相半ばしたことは否めませんでした。
「花火」は前奏曲の巻末を飾る小曲で「フランス革命記念日の7月14日の情景」にフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の引用終曲ですが「派手ではないピアニシモ的な弾き方」で逆にお見事ポリーニ。


「夢」の羽田さんは11年前に亡くなった、
人気TV音楽番組「題名のない音楽会」司会者のピアニストで、
谷村新司さんとの交友やコンサートでのピアノ伴奏でも有名でした。
この「ハネケンの夢」は目くるめく別乾坤(べつけんこん:異世界)に連れていってくれるようです。
NPのみならずこの「夢」を大好きなかたは多いのではないでしょうか。


「サラバンド」は実は演奏者や曲自体への思い入れではなく、
夏目漱石が明治42年の11月24日に大雨の中「有楽座」で沢山の他クラシック曲と共に、
聴いたドビュッシーの一曲であったという事実を文献で読んだからです。
あの文豪が「全九百席」で「七八分まで」埋まった紳士淑女の聴衆の中に居たということが感慨です。
瀧井敬子さんの『夏目漱石とクラシック音楽』(朝日新聞出版2018.3初刊)は日本の近代音楽・歴史物語でもあるように思えます。
(標題句は御免なさい季節を違えてみました。)


「ベルガマスク組曲」は兎に角(とにかく)「月の光」ですね、
これはもう以前にも当ブログで既出と思われますが…何でしょうか、
「造化の妙」(ぞうかのみょう)としか言いようのない大自然の摂理の中で、
月の光輝が豊潤に降り注いでいるような時の流れを感じさせてくれます。
高木早苗さんへのコメント欄の絶賛についつられてしまいますね。


ふう、
楽しかった…音楽モティーフを言葉にするのはスリリングかつチャレンジングですね。

明日、
ドビュッシーを気の置けない知人と共に聴ける…、
その「準備」「予習」と言うには余りにも、
クラシックをドビュッシーをピアノを、
分かっていない聴きこなせていないのです。

本当です、
当ブログは国語趣味なのでお赦し下さいますよう、
精一杯の音楽趣味を気取ってはみたのですが…ね。
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