NPブログ「Leitmotiv 」言葉・論理・主題連鎖への旅

カテゴリ: 構造主義

DSC_4657
国立民族学博物館の准教授
太田心平・文化人類学博士
をお招きしての講演会開催

標題のタイトルで約60分間
本校高2一貫生に隣接大学
大教室で講義をして下さり
受験生となってゆく今こそ

「正解がない事象と向き合う」

…という気概を学びました


ファイン・アーツ…「芸術」
マーシャル・アーツ「武術」
などをも包摂し凌駕すべき
文化的教養への知的好奇心
リベラル・アーツ…「学術」

魂を自由にしてストレスを
抱えずに生きるため必要な
「決めつけない」精神性を
異文化にも身近な人間関係
にも生かすことの貴重大事

御自身の「パニック障害」
やその克服についてもお話
いただきました…大阪大学
人間科学部への進学の際に
現NPも小論文指導などで
わずかながらも関わらせて
いただいたのはもう25年前

生徒には
「人生つまずいても大丈夫」
という言葉が有り難かった
ようで…講演後に回収した
「メモ&感想」記入用紙に
書き込みが最も多かった事

最後の方で生徒質問要望に
応えて「今日の講演を最初
からすべて韓国語でやれと
言われれば出来ます」と…
流暢な韓国語で語りかけた
のはどよめきが沸きました

日≧韓>英>中

四か国語を得意順に表した
この板書もとっても印象的

先週ニューヨークから帰国
したばかりで海外出張多く
国内他所での研究活動然り
民博に居ないこともあって
連絡取りにくいものの希望
あれば事前アポで館内案内
していただけることもあり


「青は藍より出でて藍より青し」
(弟子が師匠を上回る)

この故事を引き合いに出すには
あまりにも凄すぎてそれでも…
NP自慢の教え子さんのお一人
烏滸(おこ)がましくもご報告

有り難うございました

DSC_4659
DSC_4660








吹田の国立民族学博物館
(万博公園/自然文化園)
准教授で文化人類学者の
太田心平先生をお迎えし
本校高2一貫生を対象に
講演をしていただきます

土曜日に知人をまじえて
打ち合わせをしましたが
スクリーンを使えること
になったことであらたに
パワーポイントでの資料
作りをお願いすることに
なってしまい恐縮の朝🌞

今夜は昨日の「奎」句会
と共にご報告出来る予定

では今日も一日を元気に
雨にも風にも寒さにも…
負けずに頑張りましょう

行ってらっしゃいませ(^o^)丿




太田くんとは、
以前「構造主義」と「(社会)構築主義」についての話を展開したことがあり、
それも当ブログに記されています。
(カテゴリー「構造主義」にお越しください。)

ポストモダンと繋がる構造主義の文化人類学者、
レヴィ・ストロースの話題はこの日も出ました。
レヴィ・ストロースが分け入ったのはアマゾンであるが、
実際には「机上の学者」であったとのこと・・・意外の感があります。

太田研究員の管轄責任コーナーでの彼の拘り・蘊蓄も相当のものでした。
(勿論それ以外の全体にわたってそうです。)

「みんぱく」(大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館)は、
驚くほど写真撮影フリー、
手で触れて実体感できる、
一日過ごしても飽きない、
楽しく深く学べるリンク、
などなどが他の博物館と大いに異なっているように見受けられます。
初代館長・梅棹忠夫*氏は京都大学探検学部卒だったと言っても過言では無い大人物です。
(下記Wikiで知りましたが「漢字廃止論者」だったんですね…「情報カード」も有名です。)

太田研究員もまたこれからさらに羽搏いてゆくでしょう・・・。
すでにニューヨークなのかな・・・世界🗺
をまた、これからも知りたいと思えました。

世界を知ることで日本が分かる。
日本が分かることで自分を知る。



そんな大きな、
でも小さなことに、
もっともっと拘りたい・・・、
もう一度使いますが「優雅最上」の気持ちにさせてもらいました。

大阪府高槻市にある私立高槻中学高等学校で、
NPは太田くんと出会いました。

今回、
NPの知人男性ひとりを彼に紹介したことで、
そのひとりが大いに(でも小さく)世界を知り日本が分かり、
何よりも自分を知ってくれたら望外の喜びになります。

マイブログの画像依存を抑えて、
文章の質を高めてゆこうと考えているのですが・・・、
今回ばかりは最下方に心をとらえた幾カットかを載せます。

説明無しです、
実際に行ってみて下さい「みんぱく」。
最後のひとコマは、
一般には見ることの出来ない太田研究室の「引っ越し後片付かないまま」の様子です。


NPブログへ、
今日もお越しいただいて有り難うございます。


[以下はWikipediaより編集]
*梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)・・・
日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授。 理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長。
日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。

代表作『文明の生態史観』の他、数理生態学の先駆者(オタマジャクシの群れ形成の数理)でもあり、湯川秀樹門下の寺本英が展開した。さらに、宗教のウィルス説をとなえ、思想・概念の伝播、精神形成を論じた。その後も、宗教ウイルス説を展開し、後継研究もあり一定の影響を及ぼす。宗教ウイルス説は、文明要素(技術・思想・制度)が選択により遷移していくと言う遷移理論を柱にする文明の生態史観の一例であり、基礎のひとつである。

青年期より登山と探検に精を出し、数多くのフィールドワークの経験から、B6カードを使った情報整理法を考案、その方法をまとめた『知的生産の技術』はベストセラーになった。また、モンゴルにフィールドワークに出かけた直後に原因不明の視力障害を患い、64歳で両目とも失明するが、失明後、それ以前よりも多数の著作を残した。
1936年、京都一中(現・京都府立洛北高等学校)から4年修了(飛び級)で第三高等学校に入学。三高時代から山岳部の活動に熱中して学業を放棄し、2年連続で留年して退学処分を受けるも、後輩や同級生からの嘆願運動で復学を認められる。京都帝国大学理学部動物学科在学中には今西錦司を団長、森下正明を副団長とする中国北部『大興安嶺探検隊』(新版・朝日文庫 1992年)などの探検に参加活躍をした。モンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』(中公叢書、のち中公文庫、中公クラシックス)は、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み、大きな反響を呼び論争を巻き起こした。この主著は後の一連の文明学におけるユニークな実績の嚆矢となった。

フィールドワークや京大人文研での経験から著した『知的生産の技術』(岩波新書)はロングセラーとなり、同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」という名で商品化された。1963年には『情報産業論』を発表。アルビン・トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。「情報産業」という言葉の名づけ親でもある。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(中公叢書、のち文庫)にまとめられている。
1957年「第一次主婦論争」に「女と文明」(1988年に中公叢書)を書いて参戦し、「妻無用論」を唱えた。 

国立民族学博物館の設立に尽力し、1974年初代館長に就任した。1986年3月12日に原因不明の失明をした。それ以降の著述は口述筆記による。闘病記『夜はまだあけぬか』に詳しい。作家司馬遼太郎とは、モンゴル研究のつながりで長年の友人であった。
日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長でもある。古くから漢字廃止論を唱えていた。また、エスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員である。

主な著作(1990年初頭まで)は、『梅棹忠夫著作集』(全22巻、中央公論社)に収録。
イスラームに対しては、人と神がマンツーマンで接することができる宗教として、共感を抱いている。

2010年7月3日、大阪府吹田市の自宅で老衰により没した。90歳没。
DSC_0020
DSC_0022
DSC_0024
DSC_0049
DSC_0054
DSC_0055
DSC_0059







男子校勤務時代の20数年前の教え子さんです。
何気なく「太田先生」と声を掛けていたら、
帰りの会食の時に、
「先生と呼ぶのはやめてください、僕の先生は先生なので、僕は先生の先生ではありません。」
・・・と有り難くも言われてしまいました。

だから、
以下は敢えて「太田くん」と記すことにします。

・・・・・・

太田くんは午後二時ちょうどに、
約束通りエントランス階段下で出迎えてくれました。
NPと若い知人男性ひとりを「来客」扱いで丁重に約3時間、
たっぷりと(しかし展示は広大重厚なので)迅速に案内してくれました。

その彼の勤務先「みんぱく」(国立民族学博物館)で前回お会いしたのは三年半前で、
現在の高三生が中学三年生時に春の校外学習で一日、
万博自然文化園を満喫した際です(当ブログに記事あり)。

その際も希望者約四十名を前に講義室で、
短時間ですがとても興味深い話をしてくれました。

今回は、
上記知人男性に彼を紹介して、
二人であれこれ「世界」を見聞体感させてもらうという趣意でした。

唐突の勝手なお願いに充分この上無く応じてくれました。
(彼がこの度の依頼への直前確認メールをくれたのは海外出張先のストックホルムからでした、常々時差に配慮してとのこと感謝。なお一時帰朝滞在を経て、このあとすぐにニューヨークに発つそうです、お気をつけて。)


オセアニアから始まり、
アメリカ~アフリカ~ヨーロッパ~西アジア~、
音楽・言語を挟んで、
南アジア~東南アジア~中央・北アジア~中国地域・東アジアに、
最後はアイヌ文化~日本文化という順路だったかと思います。

悠久雄大無辺過ぎて、
どうにもこうにも余りにも目と心と乏しい頭とをひきつけるものが多くて、
一つひとつ如才なく記すことが叶いません(パニック)。

後方に涙をのんで絞り込んだ幾カットかを載せます。
武器で作られたオブジェや世界中の『星の王子様』『はらぺこあおむし』とても印象的でした。
太田青年の~運命の出逢い一冊の本~『極北のインディアン』(原ひろ子著:中公文庫)も彼のオフィスの机横に、
太田准教授自らもハングル(英語・韓国語のトリリンガル)でのコーナー説明ビデオ画面等に、
写り込んでいます。
個人研究室で見せてもらったロシアのレーニン⇒⇒⇒プーチンのマトリョーシカも心にヒット。


有り難うございました。
なんて素敵かつ贅沢な前後あわせて約四時間、
NPと太田くんは帰りに北新地「島唄ライブ琉球」へ寄って、
沖縄料理を堪能しました、
これも民族学探求の一環かな・・・。


世界を知ることで日本が分かる。


・・・そんな気持ちにさせていただいた優雅最上の半日でした。


「いつも鞄に本は入っていますか?」
これはNPが学生時代の彼にあてた手紙の一文で、
今も大事にしてくれているそうです。
ありがとう。


*太田心平(おおたしんぺい:個人ホームページ http://www.eonet.ne.jp/~shimpei/)・・・
日本の社会文化人類学者、社会文化史家、北東アジア研究者。人間文化研究機構国立民族学博物館超域フィールド科学研究部准教授、総合研究大学院大学文化科学研究科准教授、アメリカ自然史博物館人類学部門上級研究員。1975年大阪市生まれ。ソウル大学大学院人類学科で博士課程単位取得後、大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程を修了。博士(人間科学)。日本学術振興会特別研究員、大阪大学大学院人間科学研究科特任助手などを歴任。国立民族学博物館助教を経て、現職。
[Wikipediaより編集]



[ビフォー:日本庭園で鯉を見て「魚」の「道家」的な気持ちを考えてみたいという前日来の願いに知人を付き合わせて…。]
[アフター:「島唄」や「涙そうそう」など聴きながら積もる話は次回さらに男子校の教え子つながり会食をと発展して…。]

DSC_0009
DSC_0017
DSC_0023
DSC_0035
DSC_0037
DSC_0045_CENTER
DSC_0056
DSC_0058
DSC_0060
DSC_0065






「月夜のでんしんばしら」*は、
宮澤賢治が画も曲も付けて残した「絵本」です。
初出は1924(大正13)年の「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」(盛岡市杜陵出版部・東京光原社)。

全文は青空文庫で読めます。
YouTubeで朗読も曲も動画鑑賞できます。


二十年以上前に修学旅行引率で東北・北海道を巡った際に、
宮沢賢治記念館(岩手県花巻市)で買い求めた絵葉書一枚が手元にあります。
DCIM4131
長い間、
賢治自身の苦悩を擬(なぞら)えた画なのだと錯誤していました。

これは「日本国」なのですね。
当時の言葉で言えば「大日本帝国」の「勇ましくも哀れな姿」なのですね。


F・S・フィッツジェラルドが「アメリカ国」を「哀しみの孔雀」に擬えたのが五年後、
1929年のことだったのです。

その1929年(昭和4年)には、
賢治は病に臥しています。
前年の夏に肥料相談や稲作指導に奔走した挙句に高熱で倒れ、
花巻病院で両側肺湿潤との診断を受けて以後は実家で病臥生活となっていたのです。





賢治は1933年に37歳の人生を閉じます、フィッツジェラルドは1940年44歳まで生きます。

奇しくも、
あるいは、
やはり と言うべきか・・・、
賢治とフィッツジェラルドは、
1896年(明治29年)同年生まれ
でした。


「月夜のでんしんばしら」
最終末尾迄の一節を引用しておきます。
・・・・・・ 
でんしんばしらは、みんなまっすぐを向いて、すまし込こんで通り過ぎながら一きわ声をはりあげて、
「ドッテテドッテテ、ドッテテド
 でんしんばしらのぐんたいの
 その名せかいにとどろけり。」
と叫びました。
 そのとき、線路の遠くに、小さな赤い二つの火が見えました。するとじいさんはまるであわててしまいました。
「あ、いかん、汽車がきた。誰たれかに見附みつかったら大へんだ。もう進軍をやめなくちゃいかん。」
 じいさんは片手を高くあげて、でんしんばしらの列の方を向いて叫びました。
「全軍、かたまれい、おいっ。」
 でんしんばしらはみんな、ぴったりとまって、すっかりふだんのとおりになりました。軍歌はただのぐゎあんぐゎあんといううなりに変ってしまいました。
 汽車がごうとやってきました。汽缶車の石炭はまっ赤に燃えて、そのまえで火夫は足をふんばって、まっ黒に立っていました。
 ところが客車の窓がみんなまっくらでした。するとじいさんがいきなり、
「おや、電燈が消えてるな。こいつはしまった。けしからん。」と云いながらまるで兎うさぎのようにせ中をまんまるにして走っている列車の下へもぐり込みました。
「あぶない。」と恭一がとめようとしたとき、客車の窓がぱっと明るくなって、一人の小さな子が手をあげて
「あかるくなった、わあい。」と叫んで行きました。
 でんしんばしらはしずかにうなり、シグナルはがたりとあがって、月はまたうろこ雲のなかにはいりました。
 そして汽車は、もう停車場へ着いたようでした。


沢山のメタファを読み取ることが出来ます。
殊更(ことさら)に末文の停車場
賢治にはどう見えていたのか、
果たして何であったのかが肝心です。


今、
私たちが生きている国は、
世界唯一の核爆弾投下による被爆国でありながら、
「核兵器禁止条約」に無条件で「署名できない」国に、
怖ろしくも哀れにも、
なり下がっているのではないかと深く危惧懸念しています。


赤い二つの火」によもや広島・長崎が予見されているとは、
勿論まったく思いも寄らない頃に、
(とは言っても其の20年後に原爆キノコ雲は炎上)
この絵本は創作されています。


歴史の大嵐が過ぎ去ったあとに、
その奇妙な符合を感得すること、
それもまた「構造主義の功罪」に他ならないのです。


停車場は、
310万人以上の犠牲者を齎(もたら)した太平洋戦争の、
開戦であり歴史的暴挙であり、
敗戦であり絶望的廃墟であったかも知れないのです。


*月夜のでんしんばしら・・・
[Weblio辞書より]
【概説】
どこまでも続く電信柱の列を軍隊行進になぞらえ、また電気・通信の黎明期らしいエピソードが興味深い寓話である。21世紀になって、石川啄木の短歌「かぞえたる子なし一列驀地(ましぐら)に北に走れる電柱の数」や、執筆当時のシベリア出兵との関連が指摘されている。
【あらすじ】
ある夜、恭一少年は鉄道線路の横を歩いていた。すると彼は信じられない光景に出くわす。「ドッテテ、ドッテテ、ドッテテド」というリズミカルな歌が聞こえたきたかと思うと、線路に沿って立つ何千本と並ぶ電信柱が一斉に行進を始めたのだ。様々な姿形の電信柱が通り過ぎる中、やがて彼らに号令をかける老人が歩いてくる。それは「電気総長」と名乗る人物だった。
【登場人物】
恭一・・・本編の主人公。ある夜、行進する電信柱たちを目撃する
電気総長・・・電信柱たちの大将。背が低く顔は黄色、ぼろぼろの灰色のコートを着ている。
【水彩画】
月をバックに歩く1本の擬人化された電信柱を描いた水彩画。童話集『注文の多い料理店』に菊池武雄の描いた本作の挿絵とはかなり趣を異にしている。菊池は賢治の生前にはその絵を見せられることはなく、後に「もしそれを見ていたら絶対さしえなんかかかなかったろう」という感想を抱いたという。
【楽曲】
作中で歌われる軍歌について、賢治自身が作曲した歌が存在する。

・・・・・・
【追記】
いただきもののスタンプです。
ありがたくバンバン押しています。


核ニモ負ケズ
原発ニモマケズ
治安維持法紛(まが)イニモマケズ、
ガンバロウ

DCIM4101

このページのトップヘ