NPブログ - Leitmotiv ~言葉・論理・主題連鎖への旅~

カテゴリ:詩・短歌・俳句 > 芭蕉と「奥の細道」

DSC_2177DSC_2178京都大谷祖廟での弟との待ち合わせ時間に間があったので、
・・・すぐ傍らにある芭蕉堂*に立ち寄りました。


遅まきうぐいすの鳴く、
とても深く豊かな叢中、
綺麗に整備された参道、
その側らに逸れた一隅、
芭蕉ゆかりの場所です。
















下記に名の残る森川許六**の代表句です。

うの花に芦毛の馬の夜明哉
(許六)

「卯の花」は初夏(五月)の季語です。
卯の花は五弁の白い小花で、
枝垂(しだ)れた小枝に群がり付くように、
ひそかに咲いているそうです(ホトトギス「季寄せ」より)。

そうですね・・・。
白い小花に、
白毛(あし毛)の馬を組み合わせて、
白々と明けて行く夜明けを描写しています。

許六は「絵師」です。
やはり・・・と言うべきか、
俳句を画とする色の使い方ですね。

夜の薄暗い闇がまだ生きているのです。
その暗がりの中に、
やがて白い花と白い馬が見え始め、
コントラストと時の経過とを感じさせてくれます。

前記事の夏の一句、
万緑の中や吾子の歯生え初むる
(草田男)
も・・・万緑の「緑」と吾子の歯の「白」が鮮やかですよね。


こうした「色素材」には、
あるいは使い方には、
もっともっと解析すると面白いものが、
色同様に鮮やかに見えてくるように思われます。

色素材を意識して一句作ってみませんか?


昨年度NPの作った中で、
「色」濃い一句です。

新緑や火の鳥の飛ぶビルの谷
(宏)


今なら・・・。




*芭蕉堂・・・
蕉門十哲の一人、森川許六が刻んだ芭蕉のこの堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に、加賀の俳人・高桑闌更(たかくわらんこう)が営んだことに始まる。
[「京都観光Navi」より]

**森川許六(もりかわきょりく)・・・
江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。
(Wikipediaより)
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DSC_1712本日四月五日付の各紙。
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関西というよりは阪神地区ですね。

右上・スポニチ(毎日新聞系)
右下・ニッカン(朝日新聞系)
左上・サンスポ(産経新聞系)
左下・デイリー(神戸新聞系)


NEO‐ONO‐OHTANIで「連鎖」。


【第一面】
四紙全て阪神の小野

【最終面】
三紙大阪桐蔭&根尾
一紙エンゼルス大谷






皆さんの住んでいらっしゃる地域は今朝いかがでしたか?

・・・・・・・・・・・・

陽暦4月5日(木)からは二十四節気の「清明せいめいにあたり、
“天地万物の気が満ち、清く明らかになる頃”です。

本年の場合は、
陰暦で「如月きさらぎしもの頃」(二月下旬)十一日間と、
「弥生やよひかみの頃」(三月上旬)四日間との、
合わせて十五日間が「清明」で、
陽暦4月5日から4月19日にあたります。

次の二十四節気は、陽暦4月20日からの5月4日までの、
十五日間を指す「穀雨」で、
陰暦だと弥生中の頃(三月中旬)から下の頃(三月下旬)にかけてになります。


陰暦三月下旬(三月二十七日)その日に、
松尾芭蕉は奥の細道の旅に出ます。
陽暦では、
さらに次の二十四節気「立夏」の候です。
穏やかな「今の五月晴れ」(昔の五月晴れは「梅雨の晴れ間」)が続く、
絶好の行楽シーズンだったことになります。

しかも東北へと北上してゆく、
安定した「若葉前線」と共に、
作物の実り予想を追いかける、
強かな計算もまた見られます。

詳しくは (^^)/ 、
当ブログのカテゴリーのひとつ、
“ 芭蕉と「奥の細道」” をご覧いただければ嬉しいです。

【Word chain しりとり】
またまた「ライトモティーフ」してしまいました。
「重要素材・小主題」の「連鎖」のことで、
当ブログタイトルになっています。







『騎士団長殺し・第2部』

「爽健美茶」

北陸本線上りサンダーバード自由席は、
この日お彼岸Uターンもあるのか珍しく超混雑。

ようやく京都駅から座れました。

終着駅近し、
それは「騎士団長」も同じこと。


あたかも「爽健美茶」の如し、
ハト麦・玄米・大麦・どくだみ・はぶ茶・チコリー・月見草、
ナンバンキビ・オオムギ若葉・明日葉・黒ゴマ・ヨモギ、
そしてビタミンC・・・。

いろんな世界の混在感は、
ひとつの核心に向かって収斂されつつあります。


鈴が無い・・・ノーベル・・・まさかね。
DCIM2837



















[追記]
終着駅に向かっているのは、
担当学年である中三生も同じです。
中高一貫らしく卒業式設定が遅く、
いかにもイニシエーション(通過儀礼)的なのですが、
まさしく「ターミナル」、
次に向かっての折り返しの起点となります。
 

blogdog



~いつの間にか終焉の時季を過ぎていました。~

大垣到着後の伊勢への出立(場の移動)をもって『奥の細道』紀行文は閉じられます。
それは、
芭蕉翁46歳の仲秋~晩秋にあたります。

元禄2年[1689年]
旧暦(今年の新暦)
8月21日(九月二十一日) 『奥の細道』終点の大垣到着。近藤如行宅へ。
8月28日(九月二十八日) 美濃赤坂宝光寺奥の院参詣。「鳩の声身に入みわたる岩戸哉」
9月 3日(十月三日)曾良、長島より大垣へ来る 。 
4日(十月四日) この日頃、『紙衾の記』を書いて竹戸に与える。大垣藩重役戸田如水宅表敬訪問。
6日(十月六日) 伊勢神宮遷宮式奉拝のため大垣の如行宅を出発。『奥の細道』大団円


露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 、
 
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
【二枚貝のハマグリが殻と身の双身に分かれるように、伊勢の二見ケ浦に向かうために別れてゆく秋だよ】 


最後の最後も舟旅になるんですね・・・。

・・・・・・・・・・・・

想い起こせば、
江戸出立の千住(せんじゅ)まで隅田川を遡っての舟旅でした。
そして旧暦3月27日(当時の新暦で5月16日、今年の新暦で5月3日)に『奥の細道』の「矢立」(やたて:旅に携行する「矢立の硯すずり」を持つことで、ここでは旅立ちの意味)をして以来、
約五か月(150日)間で約六百里(2400km)の旅を、
旧暦9月6日(当時の新暦で10月19日、今年の新暦で10月6日)に終えたのです。

出立時のあの句や雰囲気と見事な「対」になっています。

行春や 鳥啼き魚の 目は泪(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
【去りゆく春よ 鳥は鳴き 魚の目にも私と同じ涙が見える】 

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。


当ブログ「おくのほそ道」その一での、
当初の疑問点は次の三つでした。
①3月初め迄に自分の家を引き払ったのに、約一か月間も杉風のところでいったい何をしていたのか?
②いっしょに旅に出た弟子・曾良(そら)の「随行日記」では、出発は3月20日とズレている、なぜなのか? 
③元禄2年(1689)年は閏(うるう)月の調整があり、
現在の五月中旬頃の気候での旅立ち、なぜこの時季? 

あらためてNP回答です。
①’旅の本義の最終打ち合わせで、然るべき公の筋からの密命の再確認があったと思われます。
②’曾良とはその後も随所で別行動していて、表に出ない連絡員的な部下であったと思われます。
③’大目標は東北地方の農作物等の作柄監察であり、収穫期頃の到着に合わせたと思われます。 


・・・・・・・・・・・・

よって この全旅程を終えて、
伊勢神宮参拝へと急ぐ芭蕉は、
おそらくそこで、
旅に於ける立ち寄り先の今年度 年貢見込みなどの監察記録を、
「公儀」筋に献上するのが目的ではなかったかと。

そして その公儀とは、
朝廷寄りの幕府機関、
もしくは幕府寄りの朝廷機関の、
ことではなかったかと推理しています。

そう!
ふたみ(双身)とは、
幕府と朝廷の二つの機関の挟間に揺れ引き裂かれる、
芭蕉自身だったかも知れないのです。


江戸元禄、
・・・必ずしも幕府と朝廷は蜜月時代ではなく、むしろその逆方向に趨勢はありました。
芭蕉の大いなる公務も宿病(痔と腹痛の二重苦、ここでも双身に裂かれる痛み)を抱えて、
さぞかし大変だったと思われてなりません。

この長旅で露命(ろめい:はかないいのち)を削ったわけではないでしょうが・・・、
ちょうど五年後の元禄7年10月12日、
51歳で芭蕉は「過客」(かかく:旅人)としての一生を終えています。

この10月12日は、
旧暦での松尾芭蕉の忌日「芭蕉忌」でした。



【後日談として】
なお芭蕉の追悼に関しては、
10月22・23日と江戸で杉風・曾良・野坡・子珊・桃隣らによって芭蕉供養句会
が行われましたが、
江戸で訃報を聴いた22日その日に嵐雪一派は別に追悼句会を開催しています。
服部嵐雪(はっとりらんせつ)・・・、
「梅一輪いちりんほどの暖かさ」(『遠のく』所収)という代表句で、
蕉門における我が身の孤高と師匠の恩愛とを謳(うた)った高弟です。
芭蕉が亡くなった13年後の10月13日に嵐雪は逝去、
一日違いで旧暦での服部嵐雪の忌日「嵐雪忌」でした。

蕉門に其角と嵐雪あり。
芭蕉亡きあとの江戸俳諧は、
宝井其角(たからいきかく)と服部嵐雪の二派に分かれたと言われています。

・・・こうして、
死後も芭蕉は、
ふたみに分かれてゆくのです。


ちょうどの時節に始まって、
少し遅れましたが晩秋の頃合いよく、
NPブログ「おくのほそ道」の旅、
大団円(グランド・フィナーレ)です。

ご愛顧ご笑覧有り難うございました。 

不明確なりに原文購読のまま味わうのも、
また曾良を完全スルーして何が浮かび上がるかという試みも、
逐次訳(いちいち現代語訳すること)とは違って妙味格別でした。

また別のシリーズでお会いできますように。 


《このシリーズを通して下記参照させていただきました、楽習感謝です。》
えんぴつで奥の細道 』(ポプラ社、サイト記事含む)大迫 閑歩:著、伊藤 洋:監修
『別冊山と渓谷 奥の細道』(山と渓谷社、芭蕉紀行三百年記念企画)松井利彦:監修、真島満秀:写真 
 

(参照文献はこのシリーズ ずっと同じです。)

NP古里に最も接近中の紀行記事が続きます。

同時に「奥の細道」終焉の地「大垣」の地名が見え始めます。

元禄2年(1689年)
8月11日(今年の新暦では九月十一日):北枝と別れ永平寺・福井着、等哉宅に2泊。
8月14日(同九月十四日):敦賀着、その夜は晴れ。
8月15日(同九月十五日):名月は宿の亭主の懸念通り雨模様で見えず。
8月16日(九月十六日):天屋五郎右衛門主従の案内で種の浜観光。
8月18日(九月十八日):路通とともに敦賀を出発、大垣へ向かう。


下記に見える「長老」は旧知の仲にしても、
「北枝」という人物は「研ぎ師」で この旅の見送りで入門したばかり、
芭蕉にたいそう気に入られたようです。
「余波(なごり)」惜しい気持ちは「一言書き添えた扇を引き裂いて渡す」ほど強かったんですね。
はあ・・・、
曾良と別行動になっていますからね、
秋半ばの人恋しい季節だし「人好き」「男好き」の芭蕉翁です・・・。
(なにしろ遊女の同行申出を袖にした経歴がありますからね。(>_<))




丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつヾけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、


物書て扇引さく余波哉(ものかきて おうぎひきさく なごりかな)


・・・・・・・・・・・・


 
白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城。かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
 
その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍る」と、亭主のかたりける。

 
月清し遊行のもてる砂の上(つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)

 
十五日、亭主の詞にたがはず雨降 。

 
名月や北国日和定なき(めいげつや ほっこくびより さだめなき) 

・・・・・・・・・・・・
[以下の原文部分は追補です、一日分と芭蕉の句が抜けていました。]
 
十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
 浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり
 
寂しさや須磨にかちたる浜の秋(さみしさや すまにかちたる はまのあき)


波の間や小貝にまじる萩の塵(なみのまや こがいにまじる はぎのちり)

 
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。



中秋の名月は敦賀(津=港)の宿で見ることにしたものの、
前日の「小望月」(こもちづき)は「清し」と思える良さながら、
「望月(名月)」は北国独特の「定め無き」無情の日和(ひより)で雨に祟(たた)られています。 

[これも追補ですが・・・十六日も曇りで「寂しさ」「波の間」に付けられた切れ字の「や」が、見えない十六夜月のように海面にぽつんと浮かんでいるようで物悲しいですね。]


なお「白根が嶽」は白山のことで、
「比那が嵩」(ひながたけ)は越前富士と称される「日野山」です。
後者はNP実家からよく見えます。
当ブログに記載あり、
紫式部も滞在中の歌に詠みました。


それにしても峠越えや山道も多いはずですが、
なぜこんなに急ぐのか、
よく分かりません。
体調がよくない上に早く曾良に会いたい・・・というのも歪(いびつ)ですね、
一理ありますが・・・GOAL後に分かります。


仮説を以て推理して読んでいます。

ズバリ(笑わないように( `ー´)ノ)・・・、
秋の除目*(じもく:平安中期以降の宮中行事で人事異動公示)までに、
この遠大長期の旅を終えた報告を、
「然るべき筋(省庁のイメージ)」に報告する責務があったのではないでしょうか・・・。

あっ!!
それで旅を終えたその足で、
芭蕉は伊勢神宮に参拝するのか(?_?)。


空想妄想は膨らみます。
乞うご期待、次号。
大団円近し!!!



*除目(じもく)・・・
①春の除目
諸国の国司など地方官である外官を任命した。毎年、正月11日からの三夜、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行った。任命は位の低い官から始まり日を追って高官に進むのが順序であった。天皇の御料地である県の官人を任す意味から、県召の除目(あがためしのじもく)ともいい、中央官以外の官を任じるから、外官の除目ともいう。
②秋の除目
大臣以外の在京諸官庁の大臣を除く官吏を任命するのを主とした。一部の地方官の任命も行った。古くは春に行われていたが、平安中期から、秋(8月)に行われるようになった。官吏を任命することから、司召の除目(つかさめしのじもく)ともいう。また、在京の官を任じるので、京官の除目、外官の除目の対として内官の除目ともいう。
③追儺召(ついなめし)の除目
12月晦日の追儺の儀式の時に行われる除目。春の県召の除目、秋の司召の除目に漏れた人を任じた。追儺の除目ともいう。
④小除目(こじもく)
定例の春秋の除目のほかに臨時に行われた小規模の除目をいう。臨時の除目ともいう。

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